2015年9月12日土曜日

【キャリア・コンサルタント試験①】試験範囲と内容

2015年8月末の土日、産業カウンセラー協会の「キャリア・コンサルタント試験」を受験しました。結果は10月初旬に書面で届くようです。自信あるようなないような、なんとも言えない気分で試験後は過ごしておりますが、いまさら思い悩んでも結果が変わるわけでもないので、次の目標(10月末の、人生二度目のハーフマラソン)に向けて、頭ではなく、今度は身体を鍛えることにエネルギーを集中させていきます。

さて、この試験を受けるにあたり、あまりに情報がなくて、ものすごく困りました。
ネットで検索すると、「試験対策講座」をビジネスとしている方がたくさん出てきますが、お金かけられないという方も多いと思うのですよね。「誰か情報を残しておいてー」と心の中で叫んだものです。

私は、講座に通う、受験費用、書籍代でだいたい20万円かかりましたが(きちんと計算していないのでたぶん、です)、それ以上にまた何かの「対策講座」「対策教材」に手を出すことはできませんでした。試験問題そのものの公開などは禁止されているので、お伝えできませんが、どんな勉強をして試験に臨んだかという情報であれば問題ないので、このブログでレポートしていきたいと思います。


どうも国家で審議されていた「
勤労青少年福祉法等の一部を改正する法律案」が2014年(平成27年)9月に成立したらしく、「キャリアコンサルタント」(中黒なし)が来年平成28年4月から国家資格となるようです。現在民間の複数団体が出している「キャリアコンサルティング」関連資格の合格者(2014年(平成28年)3月末までの合格者)は、何等かの手続きを経て、国家資格保持者になれるという話もあり、この夏から各団体の資格対策講座と試験に参加者が殺到している、という噂です。
といわけで、私が受験したものとは異なる試験ではあるでしょうが、これから受験する方にとって何か役立つ情報を提供できれば、ということと、私も落ちたらまた来年トライしなければならないので、簡単にすべきことが思い出せるように、ということで記録を残していきます。

※このエントリーは、「オルタナティブブログ」とのダブルポストです。「ひねもすゆるり。」のほうが詳しくなります。

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「キャリア・コンサルタント試験」の試験範囲と内容は、「キャリア・コンサルタント」講座のテキストの目次と同じです。

試験範囲と内容に合わせて、テキストが作られているから、そうなっているのだと思いますが。

【試験範囲】

<学科試験>
●キャリア・コンサルティングの社会的意義に対する理解
 1.社会・経済的な動向とキャリア形成支援の必要性の認識
 2.キャリア・コンサルティングの役割の理解
 3.キャリア・コンサルティングを担う者の活動範囲と義務

●キャリア・コンサルティングを行うための基礎知識

●キャリア・コンサルティングの相談実施において必要なスキル

●キャリア・コンサルティングの包括的な推進、効果的実施に係る能力
 1.キャリア形成、キャリア・コンサルティングに関する教育、普及活動
 2.環境への働きかけの認識と実践
 3.ネットワークの認識と実践
 4.自己研鑽・スーパービジョン
 5.キャリア形成支援者としての姿勢

<実技試験>
●キャリア・コンサルティングの相談実施において必要なスキル
 1.カウンセリング・スキル
 2.相談実施過程において必要なスキル

・・・・・・

こういう試験範囲に対して、どのような文献や情報を調べ、どんな学習したか、次回以降、まとめていきます。

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2015年2月12日木曜日

【父の介護日記⑤】怒涛の12月30日

ちょっと間が空いたが、怒涛の12月30日について記録しておきたいと思う。

ここまでの経緯は、以下の通り。
●2014年12月27日父が2Fに上がれなくなった (コレ
●トイレ介助の様子 (コレ

12月30日。
母は相変わらず体調不良で、横になっている。父は、一人で歩けない、不機嫌。トイレ介助必要。

朝9時半ごろだったか、「あれ、トイレの回数が多くないか?」と気づいた。
起きてからもう3回もトイレコール。前日まで明らかに頻度が高い。
30分に1回どころか、その内、20分に1回となった。
(夜中も2-3回起きて介助している)

そもそも、トイレには10分ちょいかかる。
20分に1回、トイレコールがあるということは、ほぼ10分起きにトイレ介助をしている状態になる。

もうおせち料理作りは諦めていたのだが、(第一それどころじゃない)
とはいえ、家族6人分の食事の支度、洗濯、掃除・・・もある。
洗濯だって半端な量ではない。

記録を取り始めた。祖母の介護をしていた時、大と小の記録を毎日取っていたのを思い出したからだ。

写真を見ていただければ分かる通り、こんな感じ。
トイレ.jpg

4回目:9:52  (たぶん、この前に3回あったのでは、と思い4回目からカウント)
5回目:10:20
6回目:11:00
7回目:11:18
8回目:11:38
9回目:12:05
10回目:12:30
11回目:13:38
12回目:14:40
13回目:15:20
14回目:15:37
15回目:15:37
16回目:16:03
17回目:16:40
・・・・

もう11時台には、「明らかにオカシイ」と全員が思っていた。

父を車椅子に載せて、バリアアリーな家の中を移動し、トイレへ。
トイレ座らせると、焦点の定まらぬ目をして、目の前にあるウォシュレットのボタンを押しまくる。
せん妄? もしや、せん妄?・・・

様々なボタンをただ押しまくって、お尻も水浸しになって、何も出ていないのに、「もういい」と言うので立ちあがらせ、
私はお尻を拭いて、
ズボン履かせ、また、車椅子に移乗。バリアアリーな家の中を再度移動し、
リビングのソファへまたさらに移乗。

10分もしない内に「トイレ―!」と怒鳴るように呼ばれる。

「お父さん、10分前に行ったばかりだし、さっきも出てなかったよ」
というが、表情の消えた父は、「いいから行かせろ!」と言うばかり。

トイレに座らせれば、すぐにウォシュレットのボタンを押しまくり、一向に「おしっこ」をする気配もない。
そして、すぐにソファへ戻せと、その繰り返し。

なんの嫌がらせだ、これは。

トイレ→ソファ→トイレ→ソファ。

シジフォスの神話を思い出した。きっとこれは罰ゲームだ。
神様に挑戦されているのか、私達は。

家事は何も進まない。
今後のことを考えたいと思ったが、考えることも家族で話し合うこともできない。
ひたすら、トイレ。トイレ。トイレ。


一方で食事。

口の中が痛いといい、固形物を一切摂らない。
プリンはどう?といってもダメ。
水もちょっと口に含んで、「もう要らない」。

これじゃあ脱水状態になるんではないか。

困った。

この時の父の状態は、
●20分毎のトイレ(実質10分間隔)
●食べない、飲まない
●常に怒っている(怒鳴られている私たちは疲弊)
●目の焦点が定まっていない
●両脚膝下が赤紫色に浮腫んでいる
●両脛の怪我は膿んで痛いと訴える
●全身で「ぜーぜー」言っている(喘鳴)
だった。

昼過ぎに、父の主治医でもある友人がメールしてきてくれた。
「淳子さん帰ってきているんなら、ご実家にちょっと立ち寄ろうかな」と。

すかさず、上記の状態を返信。

「わかった、お父さんの様子も診るね」と。

14時くらいだっただろうか。友人の医師が実家に来てくれた。

トイレ、脚の浮腫み、口の痛み・・・。ざっと状況を診て、以下のようなことを言われた。

●喘息が出ている、かな。ぜーぜーしているからね。
●トイレの回数が多いのに何も出ていないんでしょ? 前立腺肥大が起こっているかも。
→「えー、20年くらい前に前立腺肥大の手術したのに、なぜ?」「あれは、中をちょっと削るだけだから、また肥大するんだよ」
「えー、そーなのぉぉぉ!?」「前立腺肥大で、膀胱には尿が貯まっていてしたいけど、出ないんじゃないかな」
●口・・・は専門外だけど、歯科医の領域だなぁ。
→「そうか」「うーん、でも12/30でしょう。もう歯科医、全部しまっているからなぁー。年明け早々に歯科医に行くか、だけど」
●脚の浮腫みは、圧のある靴下はくといいかも。1/2には病院の売店が開くから買いに来て。
●せん妄・・・ちょっとあるかもね。でも、意識障害であって認知障害じゃないから。
●怪我・・・膿んでるから痛いんだろうな、かなり深い傷だしね。

・・・・「ちょっと病院に戻ってくるわ」。

うへ?我が家のために?

前立腺肥大か。圧の靴下かぁ・・・。12月30日。年明けじゃないとダメか、全部。1月2日まで乗り越えられるのか、この状況。
しかし、とにかく、友人は病院に引き返してくれた。

一方で、寝込んでいる母は、近所の友人KさんにTEL。
そのKさんの身内に歯科衛生士がいることを思い出し、年始にその衛生士さんがKさん宅に遊びに来ると聞いていたので、
「正月、可能だったら、うちにちょっと診に来てもらえないだろうか」と相談した。藁にもすがる思いで。
「うん、わかったわ。うちに来たら言ってみるね」との返事。よし、1/2日くらいに一度来ていただけるかも知れない。


だが、30分後、そのKさんからTELが。
「今、近所にいて、最後の訪問歯科が終わったところなので、田中さんちに行ってもいい?って〇〇ちゃんから連絡あったけど」
「え?今から?12/30のこの夕方の時間に?お願いしていいですか?」

「歯科衛生士さんが来てくれるって!」

・・・・

1時間もしない内に、その歯科衛生士さんが来訪してくださった。
歯科医を連れて。

びっくりした。

「年内最後の訪問歯科が終わって、病院に帰ろうかというところだったのでちょうど通り道でした」

ソファに座ったままで父の歯のレントゲンと撮ってくださり(家でレントゲンが撮れるのだ!)、診断。

奥歯が動揺しているので抜歯したほうがいいかな。あとは、歯周病ケアをするだけで少しましになるかも。
抜歯するとしても年明け。
とりあえず、歯周病ケアをすれば、ご飯食べられるかも。
痛み止めも飲んで。
年末は乗り越えられるよう、頑張ってみましょう。

・・・歯科医と歯科衛生士の二人で父を診て下さっている間に、主治医が今度は病院から戻ってきて、
彼は彼で、「歯科医と歯科衛生士がいる」ってことに非常に驚いていた。
主治医は前立腺肥大の薬と弾性包帯を用意してくれた。

16時ごろ、我が家には医師が3人いた。 
歯科医、外科医(主治医)、そして父(一応内科医)。

父も会話はできるので、歯科医と外科医、外科医と父、など、医学用語でやり取りしていた・・。

内容はよく分からないのだが、年末年始を乗り越える算段は付いたようだ。


この時された処置、対応は、以下の通り。

●歯周病ケアと痛み止め
●脚の浮腫みに対して弾性包帯を巻く
●前立腺の薬飲んでみましょう、おしっこ出るようになるはず

・・・ってところ(細かくはもっとあるのだが、おおざっぱに言えば)。

歯科医・歯科衛生士チームに感謝を述べ、送り出し、
主治医(かつ私の友人)を引き留め、一緒に夕飯へ。

「水分摂らないとダメだねぇ。おしっこでなくて、何も食べなくて、まあ、食べないのはいいけど、水分は最低500、できれば700、可能なら1リットルくらい摂れるといいんだけど」

「出ない、飲めない、が続くとどうなるの?」

「腎不全起こす。そうなったらあっという間だ」

「あっという間か・・・」

この時初めて、私は、父が数日以内に死んでしまうという可能性を考えた。これまでの数日も「年内持つのか」「1月は持つのか」と思っていたけれど、「腎不全起こしたらあっという間」という言葉で、どーんと衝撃を受けた。

「もし数日で父が死んでしまうとしたら、それまでに何をすればいいのだ。いや、そういうことではないか。話しておくべきことはあったか。いや、意識もところどころ朦朧としているし。」

ぐるぐる考えていた。

父は、夕食の時間もほとんど何も口にしなかったが、水分だけはちょっと摂った。

この日がピークだった。
結局、数えていただけで、トイレは22回。(記録漏れもあるだろうから、実際にはもっとあったかも知れない。)

父の最悪な日。
家族も疲労困憊な日。

しかし、救世主のように医師が2人も来てくれて、奇跡の1日でもあった。


翌日の大みそか、父のトイレ頻度は、上記の写真の通り、少し減った。

私は、祖母の介護の時、ミキサーでご飯用意していたことを思い出し、
野菜のポタージュを作ってミキサーでがーっとつぶして、父に出してみた。

相変わらず、口の中の痛みはあったが、痛み止めで少しは物を入れられるようになったようで、
とろとろのミキサー食・スープをちょこちょこと飲めるようになった。

水分摂取の記録も並行して取っていたが、12/31はほぼ500㏄くらい。
1/1が700㏄くらいだったかと思う。

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もう1ヵ月半近く経過していて、記憶が不鮮明な部分もあるが、怒涛の12/30は、こうして過ぎていった。

父は現在、比較的元気にしている。せん妄状態もあの日だけで、頭しっかり。
歩けないのは変わらないが、普通食を摂れている。



【父の介護日記④】トイレ。

怒涛の12月30日について書く前に、「トイレ」について。

12/27には室内車椅子が導入されており、その車椅子が大きくて小回りが利かなかったため、29日には、小型のものに交換してもらっていました。
私が実家に到着した時点で、ちょうど小型車椅子が搬入されたところ。

父は自力で歩くことが全くできなくなっていたので、トイレが一番の重労働となりました。

【トイレ介助のプロセス】 *基本的に日中、父はリビングルームのソファに座って過ごしています。

1.「トイレに連れていってー」と父が訴える
2.「はいー」と2人(誰でもいい)が父のところに行く
3.1人が「車椅子」を父のすぐ脇に寄せ、ストッパーをかける
4.2人で父を立たせ、1人が動かない右足を手で動かしながら、車椅子の前まで移動させる(父は介護用棒につかまっている)
5.2人がかりで父を車椅子に座らせる
6.1人が足乗せに右足と左足を手で乗せる
7.ストッパーを外して、車椅子を動かす
8.リビング→廊下→トイレまで1人が車椅子の前で段差を持ち上げる、一人は後ろから押している
9.前にいる1人がトイレの中に入り、車椅子をトイレぎりぎりまでひっぱり(一人は後ろから押している)
10.前にいる1人が、父の両足を順番に足乗せから降ろす(足乗せは、左右に跳ね上げる)
11.前にいる(トイレ内にいる)1人がトイレの外に出る
12.車椅子を後ろから押していた1人と外に出た1人の合計2人で父を抱きかかえて立たせる(父はトイレ内に設置したバーに両手でつかまり踏ん張る)
13.1人が車椅子を後ろにひく(邪魔にならない場所へ)、別の一人が父のズボンやらパンツやらをひざ下まで降ろし、父を座らせる
14.2人とも呼吸を整える
15.トイレが終わると、父を持ち上げて立たせ、目の前のバーに捕まらせる(その間、一人がトイレットペーパーでお尻を拭く。小であっても)
16.1人が立っている父を脇からさらに支え、1人がその間にパンツやズボンを持ち上げる
17.パンツ担当の1人が車椅子をまたトイレの近くまで持ってくる
18.2人がかりで父を車椅子に座らせる
19.1人が車椅子の前に回り、前から引っ張ってリビングへの段差を乗り越える
20.ソファの脇まで車椅子を近づける
21.前にいる1人が父の両足を足乗せから降ろす
22.後ろと前の2人で「せーの」で父を立たせる(父は介護バーに捕まって踏ん張る)
23.1人が車椅子を下げ、1人がしゃがみこみ、父の両足を少しずつ動かす
24.父がソファーの前まで移動できたら、2人がかりで座らせる
25.父と介助者2人の合計3人が呼吸を整える


1~25までで最短10分。その後、トイレの掃除も軽くするので、全部で13分くらいかかる計算。

これを1日何度も繰り返します。
読んでいても全然映像が思い浮かばないと思いますが、まあ、たくさんのステップと力が要るのが、トイレ介助でした。

ちなみに父は70㎏欠けるくらいあります。
しかも、右下肢完全麻痺で、足の位置すら動かせません。

【父の介護日記③】年内最後の訪問看護師とケアマネージャの来訪(12/29)

実家に到着したのは12月29日(月)午後2時ごろだったかなあと思います。いやもっと早かったかな。

すでに妹一家(甥っ子5歳を含む)が前夜からいて、妹からは、以下のような連絡を受けていました。

「お母さん、相当疲れている」
「お父さん、自分のことを、心不全だと言っている」
「明日29日、私は病院に行くつもりなんだけど、一緒にお父さんも連れていこうか?」

・・・ 父は内科医なので、自分で、自分の状態を"心不全"と「診断」していたようです。

実家に着いてまずびっくりしたのが、父より母でした。

数日前から風邪気味だとは聞いていましたが、ソファーに横になっており、表情が死んでいる! 目がとろーんとして、反応も鈍く、だるすぎるだるくてたまらないという感じ。

母に「大丈夫?」と聴くと、「気力が湧かない」と、これまで聴いたことのないセリフを。そういう弱音を吐く人ではないので、表情共に、びっくりしました。

父はといえば、いつも通りソファに腰かけ、TVを見ているものの、呼吸が苦しそう。喘鳴が聞こえています。

むむ、これは。。

「3時に訪問看護師さんとケアマネさんとフランスベッドの方の3人が来るの。訪問看護師さんがお父さんを入浴もさせてくれるので、お風呂洗って、お湯ためて、風呂場を温めて・・・」と母はそういいまだ倒れています。

到着したばかりで、なんだかわからない私は、自分が着替えたり、なんだりしているうちに、義弟がお風呂掃除を始め、「ああ、ごめん、私がしなきゃいけないのに」といい、ばたばた、と。

15時、ケアマネさんと訪問看護師さん、フランスベッド介護用品担当の営業さん?到着。まずは、すでにレンタルで数日前に導入されていた室内車椅子の交換。
大きすぎて家の中で動きづらかったこともあり、小回りの利くサイズに交換したとのこと。

「お、これだと、お父さんをなんとか風呂場まで連れていけるわ」などと皆言っている。
看護師さんが血圧測ったり問診したりしてから、入浴へ。

ソファに座っている父は支えることで立ち上がれ、そこから車椅子に移乗。車椅子でトイレへ。2人がかりでトイレへ座らせ(介助)、そこからさらにまた二人がかりで車椅子に移乗、2人がかりで風呂場へ。
風呂場では、100㎏の力で寄りかかっても大丈夫という、入浴介助用の椅子(フランスベッド製)があり(これもレンタル)、・・・あとは看護師さんにお任せ。

・・・風呂から上がり、また車椅子でソファへ。

再度看護師さんが父を診てくださいました。

ちょっと前から父が「口が痛くてあまり食べられない」と言っていたので、看護師さんに伝えますと、看護師さんも口腔内を見て、「うーん、なんでしょうねぇ」とわからない様子(そりゃそうです。歯科が専門なわけではないですから)

その日は、ケアマネさんと私は初対面の挨拶をし、フランスベッドの担当者には、すでに導入していた介護電動ベッド、室内車椅子、部屋のそこかしこに設置してある天井と床でさえる巨大つっぱり棒(これにつかまって立つわけですね)などのほかに、「立ち上がりを楽にする介護ソファ」もどうかな?などと話して別れました。
(この間、理系の義弟は、「どういう導線にすれば室内で父をより楽に移動させられるか」をひたすら検討していました。PCをここの移す? 介護ソファをここに入れて、もとからある3人掛けソファは脇によけて。・・・などと)

1月29日(月)、この日で年内の公的な方との打ち合わせは全て終わりで、年明けは、1/5(月)の平日から、ケアマネさんもその他皆さんともまた連絡が取れることになりますね、なんて話をして、「今年もありがとうございました」の挨拶をしてお別れ。

この時、フランスベッドの担当者さん(若い男性)は、「ボク、年末年始、基本的には家でごろごろしているだけなので、何かお困りのことがあれば電話してくださいね」とおっしゃって、なんといい人なんだ、と感激したのを覚えています。

お風呂終わるともう夕食の支度。

母は相変わらずどよんと寝込んでいるので、妹と私とで夕食の支度。その晩は、前夜作ってあったおでんに、新しい種を追加投入して、2晩目のおでん。

父は、ソファーから動けないので、リビングの父のところまで、比較的柔らかいおでん種を小分けにしたものを持っていきましたが、「口が痛い。食べたくない」といって水分をちょっと摂ったのみで、「もういらない」と険しい顔をして食事を拒絶します。

父は食事くらいしか楽しみがない、というほど、「朝昼晩」のご飯を「まだか」「まだか」と言っているタイプだったので、以前から「お父さんが食べなくなったら危ないね」と家族では話題にしていたわけですが、その父が「食べられないから要らない」と言い出しました。

あ、こりゃ大変なことが起こるかな?と、漠然と予感し始めたのがこの29日でした。
口が痛いのは何故なのか? 喘鳴はどこに原因が? トイレに連れていくだけでも重労働だ、これ、もっと楽にならないか?
(父およそ70g、母、たぶん、45㎏くらい。一人では限界が・・・)

そして、怒涛の12月30日(火)がやってきます。

この日、家族全員が"死にそう"になるのでした。(父だけでなく、介護している家族みんなも・・・)

【交換された小回りの利く車椅子】
車椅子.jpg

【父の介護日記-番外編-】介護はそこここに溢れていた!

オルタナブログとダブル投稿です。

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年末から父の在宅介護に追われ、一時は父の死ぬかも、という状況になったのですが、家族も「死ぬ―」と思うほどの状態がありました。
心身共に疲れ果て・・・という・・。

後日詳しく書きますがそれはまるで「シジフォスの岩のお話」を体現しているような。
これは何の罰ですか?と思うほどの日があったのです。

さて、そんなこんなをFacebookだけで公開していましたら、もちろん、状況が状況なだけに「いいね!」を押す方は少ないものの、相当数の方が私の介護状況を見守ってくださっていたようです。

コメントがいつもより多数寄せられました。
コメントではなくメッセージで頂戴するケースもありました。(今でもあります)

メッセージの場合は、本当に個人的な状況を詳しく説明してくださり、「うちも同じ」「一緒に頑張ろう」「書いてくれて、自分も調べ方がわかった」など添えてあります。

それでわかったことは、介護は日常に溢れかえっているという事実です。

誰も口にはしないけれど、40歳も過ぎたら、男女問わず、実の両親、義理の両親、そして、祖父母と大勢の高齢者を抱え、その中で、一人は被介護者がいるという方が本当に多いのです。

現在進行形の方も、数年前まで4年見てましたとか、在宅で5年とか、ホームに最近入居してもらい後ろめたい気持ちも残っているとか、あるわあるわ。

巻き込まれている世代は、40代以上なので、働き盛りというか、重要なポストについている方も多く、また、晩婚化も手伝って、子育てと介護が同時多発で起こっているケースも。

ああ、なんてこった。

私がFacebookで饒舌に自身の身に降りかかる介護のことを書いていたら、それに誘われるように、大勢の方が、「私もそうだ!」「私の話も聞いて!」と反応してきたってことは、誰もが「誰かに聴いてほしい!」ということにほかならず。

それだけ、介護者は孤独で追い詰められているのではないかとも思った次第。

だいたい、子育ての苦労は、子どもがかわいい!ということで救いがあるけれど、
高齢者の介護は、汚い話も混ざってきて、救いになる部分が少ないと思うわけです。

私も父のうんこを拭く・・という日々を送りましたが、あかちゃんのうんちと大人のうんこはなんか次元の違うものがありますよね。

そうなると、「話しても仕方ない」「他人の目に触れさせても」「そんなこと聞かされても困るよね」と遠慮して、一人で胸にしまって悲しみや苦しみを耐えてしまうのではないだろうか・・・。

いや、もちろん、一番情けないと思っているのは、被介護者当人ではあります。
父も「こんな風になってしまった」と最悪の体調になった頃は言っていました。(頭しっかりしているものですからちゃんと認識できている)

でも、家族もやるせない。

そして、肉体的にも精神的にも、まじキツイ!

日本は、本当に高齢化社会なのですねぇ。

介護うつにならないためにも、独り言でもいいから、話すことでじゃんじゃん発散したほうがいいと思うのです。

・・・・・いやはや、大変。

我が家はまた別の意味で、大変なモードに突入しました。昨夜。

2015年1月13日火曜日

【父の介護日記②】突然父が2Fに上がれなくなった(2014/12/25)

父の介護日記②。(オルタナブログとのダブルポストです)

まずは、年末年始の出来事を記録していきましょう。(その後、「年末年始」後のさらなるドタバタ、「日本の介護事情」などを書いていきまする)

何度も書きますけれど、12月22日(月)~24日(水)まで、両親や妹一家と6人でクルーズ旅行をし、船上から熱海の花火を楽しんだりしました。

この時の父は、車椅子で移動するものの、食欲は旺盛で、私が食べきれないほどのフルコースディナーをぺろりと平らげておりました。(朝ごはんも昼食も同様)

船室ではソファーに座り、車椅子に乗り移る(=移乗と言います)には、一人以上の介助が必要。トイレに行くにはできれば2人の力があるといいという感じでした。すでに右下肢は麻痺しているため、足を動かしてやらねば、右足は置いたままの状態で向きも変えられない状態ではありました。

つかまったとしても、一人で1分も立っていられないので、入浴はできませんでした。(シャワーすら浴びることができない)
とはいえ、まあ、足が不自由な老人というくらいの様子だったのです。船内イベントもほぼ全部見学し、楽しそうにしていましたし。

・・・この時点で、私や妹は、「むむむ? 秋以来、2-3か月ぶりに会ったけど、この状態で、母と2人で大丈夫なのか?」と心配はしていましたが、なんせ食事は全部食べるし、トイレさえ介助すれば、次のトイレまで2-3時間くらいは一人で放置しておいても大丈夫だったのです。

これが嵐の前の静けさだったとは、後で知ることになります。

下船が12/24(水)、横浜大桟橋のタクシー乗り場まで、船のスタッフにも手伝ってもらい車椅子で移動。タクシーに乗り込むところまで2人くらいで介助(右足が動かないため)。 
タクシーを降りてから、母一人で家まで上げることができるのか心配でしたが、「大丈夫」と母も言うので、見送りました。

私も妹も帰途につき、落ち着いたころ実家にTEL(だったかメールだったか)をしたところ、「お父さんは無事、自宅に上がり、2Fの寝室に行って寝た」というので、一安心でした。(この「2Fの寝室に行って」という部分も後から聞くと大変なことになっていたのですが、この時点では知る由もなく)

翌日25日、26日と母に何度かメールしたものの、日ごろなら数時間以内に返信があるのに、なぜかちっとも返信がないため、なんとなく心配になり、TELしました。TELも最初は通じず、だんだんと胸騒ぎがしてきて、携帯や自宅に1時間おきくらいにかけているうちに、やっと母が出ました。たしか、26日のこと。

「忙しくてメールする暇、なかったのよぉー」

「何があったの?」

「お父さんが、2Fに上がれなくなって、この2晩は、1Fのソファーで寝たのよ。寝心地悪いでしょう?だから、ケアマネージャさんにお願いして、急きょ介護ベッドが入ることになって、ばったばたしてて」

「うへ」

・・・そんなことに。 24日下船→帰宅後、2Fの寝室に行ったのに、その翌日からもう2Fには行けなくなったというのです。

1Fには和室があり、そこに介護ベッドを入れることになり、年末なのに2日で対応してくださったらしく、27日にはベッドが入ったといいます。
(もともと、母は1Fの和室で布団で休み、父は2Fの寝室のベッドで休んでいました。もう20年くらい前からかな)

25日、26日とソファで寝た父。 (ちなみに160㎝くらい、70㎏くらい。重たい)
27日から介護ベッドで。
介護ベッド導入の晩から、父は母の蒲団の脇にあるベッドで寝ることになったわけですが、父が夜中「1時間に1回」の頻度で「今何時?」「もう朝?」などと声をかけるため、母が眠れなくなってしまったらしいのです。(これも後で聴いた話です)

28日、妹一家が実家に帰省します。到着すぐに私に妹からメールが。ひとこと。「おかあさん、相当疲れている」


・・・何が起こっているんだ?実家で。

私もすぐ行ったほうがよさそうな状況でしたが、1月5日に締切がある原稿が3本くらいあって、年始に書こうと思っていたのでしたが「もしかすると年始は自宅に戻れないかもしれない」と思い、急きょ、原稿を書くことにしました。急げ、急げ。ネタ考えろ。(← この判断は正しかった!)

火事場のばか力とは本当のことで、4本の原稿をそれぞれの担当編集者に送ったのが、29日午前中。午後から実家に向かったのでした。

12月29日(水曜日)14時ごろ実家に到着。

実家で目にした父と、そして母の様子に愕然としました。

・・・続く。

2015年1月8日木曜日

【父の介護日記①】年末年始と父の介護でてんてこ舞いになりまして。

===「介護日記」については、オルタナブログとダブル投稿です。どちらかをやめてしまうかもしれないので、とりあえずダブルでスタートします===

みなさま、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

年末に家族(両親、妹家族、私の3世代6人)で、熱海の花火Xmasクルーズ(12月22日-24日)の2泊3日を楽しんでそれぞれ自宅に帰宅。その2日後から父が急激に衰え、28日には完全介護の状態に陥り、30日には一時食事もとれず、尿も出ず、このままだったら「腎不全」で死ぬぞ、な状況に陥り、その上、要介護ではない健康な母も体調を崩し、妹一家(甥っ子5歳も含む)と私の4人で介護と家事、その他、事務的な手続きに追われ、・・・といっても、年末年始で病院は閉まっている、公的機関(たとえばケアマネージャさん)に連絡取れない・・・、というピンチに見舞われてしまいました。 (実際には、船内でもトイレの介助は必要で、2人がかりでトイレに運び、立って用を足したら車椅子に戻す、ということはしていたのですが、帰宅してからは立って用を足す、もできなくなり・・・)

で、結論から言うと、父は今でも生きており、しかも、元気になり(下肢麻痺があり、自力歩行はできませんので、介護状態であるには変わりませんが、頭もしっかり、ふつうに座っているとただの老人にしか見えないし、7日から固形物も摂れるようになり)、母もだいぶ体調が戻り、私も1/7(水)から職場復帰・・・と、なんとか、平常の7割くらいまでの状況には戻りました。

年末年始の10日間ほどで、日本の介護を取り巻く環境やらサポート体制やら、老人介護の現状やら、在宅介護の問題点やら、物理的なことだけじゃなくて、心理的な側面や経済的側面などについても調べ、考え、それなりに詳しくなりまして、おいおいブログなどでレポートしていこうと思います。

実は、年末年始の介護に追われていたさなか、Facebookでのみ、その都度あれこれ書いて公表していたのですが、友人の多くが同年代であることから、多くの方に「うちも同じ」「うちもそろそろ」「そういうことを今のうちに勉強しておきたい!」と息をひそめて凝視してくださっているコメントをいただき、老親の介護問題には関心が高いことをあらためて知りました。

私、というか、田中家は、12年前までの8年間、祖母の介護を在宅でした経験があり、私も妹もそれなりに介護知識と介護経験があったことが、この年末年始の窮地を乗り越えるのに役立ちました。

知っていると知らないとでは大違い。
やったことがあるとやったことがないとでも大違い。

そして、ネットに情報があるとないとでも大違い。

父の介護で経験したことは、誰かの役に立つかもしれないと思い、時間を見て、ちょこちょこと書いていきます。

・・・というわけで、今年は正月があったようななかったような、いや、なかったのだけれど、
とにかく、新しい1年、またどうぞよろしくお願いいたします。

よく「何はともあれ身体が資本」などと申しますが、自分の健康だけでなく、家族の健康も、自分の仕事に影響するのだなあ、としみじみ思いました。

個々にはお礼を申し上げておりますが、年末年始助けてくださった医師、友人、ご近所の方、公的支援の担当者などなど、本当に多くの方のサポートに感謝します。

介護業界、凄いわー、皆プロだわー。