西東京の予選を勝ち進んでいるらしいことは、夏休み中の私の耳にも入ってきた。とはいえ、TwitterもFacebookも、いや、ケイタイもポケベルも、それこそ、電子メールもない時代。
そうそう連絡も入ってこず、野球部だの高校野球そのものだのに関心のある一部の同級生が盛り上がっていることを、教室内でたまに聞く、という感じであった。
準々決勝あたりから何か変な感じになった。
だいたい、西東京での準々決勝である。強豪ひしめくなかでなんで国高が勝ち残ったのだろう?なぜ?なぜ? 国高も強かったのだろうが、なぜか相手チームのミスが頻発したりして、神様が味方している、としか思えないほどだった。
勝ち残り始めてから、がぜん、大勢が興味を持ち始め、球場に足を運び始めた。
準決勝。かなりのNEWSになった。
決勝。 あれ? なんかおかしいんじゃないか?
地元も盛り上がってきた。
そして、なぜか、失礼ながら、なぜか、決勝でも勝ってしまった。
その決勝戦の日、私は祖父の葬儀があって京都の丹後半島の小さな町にいた。TVのNEWSか何かで「国高が甲子園に行く!」と知った。
その当時、母の次兄が阪急ブレーブスの球団社長をしていた。
葬儀の合間に伯父が「阪急ブレーブスとして祝電を打ってあげよう」と言ってくれ、国立高校に祝電を打ってくれた。とはいえ、もう全国からの祝電があったはずなので、伯父のそれが何だったのかはついぞわからず仕舞いだったと思うのだが。
それからの国立市と国立高校はすごかった。
寄付が集まりすぎて5000万だか1億だか、とにかくとてつもない費用が集まったらしい。
報道もすごかった。スポーツ新聞はもとより、一般紙でも「国高の連載」コーナーができた。都立の星と言われた。まさに「国高フィーバー」である。
甲子園に行く前日。国立から2ケタのバスが出発した。私も乗り込んだ。
アルプススタンドで応援した。TVで見るのと違って、何が行われているかちっともわからない。今ならワンセグで同時に見ることもできるのだろうが、遠くで何かが行われている感じ。
それでも、国高側のスタンドの異様な熱気に相手の箕島のピッチャーは、気圧されたらしい。
ずーっと点が入らず、5対0(だったかな)で負けた。
私たちの夏は終わった。
その年、大学受験だった。
私は無事、浪人し、野球部の何人かは現役で東大に行った。(なんだよ!笑)
高校1年の時、スキー合宿で「国立」というゼッケンをつけていたら、地元の大学生に「コクリツだってさあ。変なの」とからかわれた。
3年の時、甲子園に行ったことで、「国立」を「コクリツ」と呼ばれることはなくなった。
そして、大人になってからも「あ、国高出身なんですねぇ~」と、私が頑張ったわけでもないのだが、関心されることも増えた。
国立の街中が、国高の同窓生全員が、全国が盛り上がった、そんな夏からもう31年。
懐かしい。
勉強もせず、あれほど熱くなれたイベントは、もうない。
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