2011年7月30日土曜日

ブログの扱いに悩み始める

このブログは、2009年4月1日から書いていたブログの後継で選んだものなのだけれど、その後ITメディアのオルタナティブブログに参戦し、そちらの更新頻度を上げている内に、ついつい、こちらがおろそかに。

というか、書くとしたら、叔母バカネタとかごくプライベートネタとか、オルタナブログに書かない(書けない)ことに限定されそうな・・・。

すると、困ることがあって、勤務先で「スタッフブログ」に位置付けられているのは、この「neo」の方だったりするんだなぁ。

どうすっかなー。という独り言を久々にアップして、今日のところは、お茶を濁してみました。

2011年7月21日木曜日

【お知らせ】「朝イチ倶楽部」専用グループがFacebookに出来ました!

Facebookに「グループ」という機能があり、「同好の志」を集めて、情報交換することができます。

「朝イチメール」の読者のおひとりが、「朝イチ倶楽部」というグループを作成してくださいまして、「朝イチ」読者の方を探しては、招待しております。

このブログをお読みの方で、「朝イチ倶楽部」グループに入ってもいいよ!入るよ!という方は、以下、Facebookの田中淳子に対して「友達申請」を出していただけますか?

「お友達になる」→「朝イチ倶楽部グループに招待」→読者の皆様と交流開始、という流れです。

なお、すでに
●8月のオフ会企画が3本流れています(東京2、大阪1)
●読者の方同士が友達になって、交流し始めました
●朝イチメールの仕掛け人、日経BP社「Mプロデューサー」や、水曜担当だったカトラーさんもメンバです
なんて動きがあります。

ご連絡お待ちしておりまーす。

【田中淳子Facebook】
http://www.facebook.com/TanakaLaJunko

2011年7月20日水曜日

「参考になりました」より「勉強になりました」

以前、何かの本で読んで以来、私は気を付けている言葉づかいがあります。

どなたかに教えを乞うた際、感想として「参考になりました」ではなく、「勉強になりました」と言う、というもの。

「今日は、参考になりました」なんて言うのは、失礼だ、とその本に書いてあったのです。

特に年長者、多忙な方に時間をとっていただき、たくさんの教えやアドバイスをいただいた、その結果、「今日は、参考になりました。ありがとうございました」なんて言っちゃうと、相手は、「え?参考?その程度?ガックシ・・・」と言う気持ちにもなる。場合によっては、「失礼だな」と思わせることもある、と。

あ、なるほど、そうかも。確かにそうかも。

「参考」と「勉強」では、重みが違う気がする。語感の問題かもしれないけれど。

「参考になった」というのは、「one of them」の意見として聴いとくね、というニュアンスがありそうな。
「勉強になった」というのは、心底、きちんと拝聴し、自分で消化していこうという意思を感じさせるような。

2011年7月17日日曜日

あれから2年。愛する君へ。

2009年7月17日。

甥っ子が2か月の入院を経て、はじめてしゃばに出てきた日。(その時の気持ちをつづったのがコレ→「はじめて逢った君へ」)

その日は、有給休暇を取り、実家がある町田で、妹が甥っ子を連れて帰るのを首を長くして待っていました。

タクシーから降りてきた妹の胸に抱かれた甥っ子は、本当に小さくて、くにゃくにゃしてて、そして、熟睡していました。私は、ばしばし写真を撮りまくり、記録にとどめることに余念がありません。

じじばば、おばちゃんもリビングに揃い、みんなで交代に甥っ子を抱っこしてみました。

腕の上に預けられた彼は、重さを感じないほどの存在でした。とてもとても小さくて、そしてかわいくて。

世の人が自分の子供ではないのに、甥・姪に「はまって」いるのだろう?と長年フシギに思っていましたが、逢った瞬間にもう「うわーーーーーーーーーーーっ」というほどにアドレナリンが噴出し、私の叔母バカは決定しました。

退院してきた時の足のサイズは7cmでした。
横に寝かした際、うす掛け代わりにフェイスタオルを横置きにしても、首から下全部が隠れるほどでした。

あれから2年。

足は14センチを超え、体重も11キロを超え、ちゃんとちゃんと「お兄ちゃん」の顔になってきました。言葉も増え、自我も芽生え、「好き嫌い」を言うようになってもきました。

恋人とかボーイフレンドとかそういう存在と全然違う愛する対象ができるなんて想像すらしていませんでした。目に入れても痛くない、という言葉の意味がよくわかります。

叔母バカ上等。 これからも「叔母バカ道」を邁進します。「おばちゃん、うざい」と言われるまで(笑)。


今一度、

生まれてきてくれてありがとう。
私たちに逢いに来てくれてありがとう。

キミに明るい未来が待っていますように。

2011年7月16日土曜日

伯母バカ通信:甥っ子語録(2歳なりたて)

ITメディアのオルタナティブ・ブログを開設したため、そちらの更新を優先していて、この「道具箱neo」がご無沙汰状態になっています。お急ぎ?の方は、ぜひ「田中淳子の”大人の学び”支援隊!」をご覧ください。ぺこり。

さて、甥っ子(2歳なり立て)の語録。自分用のメモ。そして、甥っ子のための記録。

●信号を教えているそうです。

赤:「とまれ」→「ぽまれ」
青:「すすめ」→「すぷめ」

なんとも「萌え~♪」な発音です。

それ以外にも、

・「きんまん」(バイキンマン)
・「おしゃまい」(おしまい)
・「ごちゃま」(ごちそうさまでした)

などの語録も。

・・・と、ここまではかわいいのですよ。ここまでは!

GWに私が「おばちゃん」と教えたら、ちゃんと発音できずに、「あーしゃん」と言っておりました。

「あーしゃん、誰?」と聴くと、私を指さす、なんてことも。

「あーしゃん」。いいね!と思ってたら、最近、少し進化して、「あーしゃん」ではなくなったと。

なんと、あろうことか、「ばーちゃん」に変わったというではありませんか。

なんてこと、なんてこと、なんてことーーーーーーーー!!!!!

なぜ、私の母ですら「ばあば」なのに、このアタクシが「ばーちゃん」なのぉぉぉぉ。


2歳児に罪はない。たぶん、自分では「おばちゃん」と発音しているつもりであろうし。
はやく、「ばーちゃん」→「おばちゃん」とさらなる進化を遂げることを祈るばかりです。


2011年7月12日火曜日

にっぽん全国我慢大会2011

営業兼任となり、日中の外回りが増えてきました。

そして、初めて気づく、この暑さ! 耐え難き暑さ! 今年は節電が加わり尋常ではない暑さ。

今日は、アライアンス先をお尋ねし、情報交換をしてきたのですが、よく知った相手でもあるので(そして、先方もラフに違いないと予想したので)、思いっきりサンダル(女性用のですよ)をはいて堂々と出かけてしまいました。それでも、もう歩いているだけでめまいしそうなほどの暑さ。
街中を見ると、さすがに上着着用の男性は以前よりは減っていますが、やはり、いるいる、いるいる。あちこちにスーツ着用、ネクタイ着用。柱の陰で汗をぬぐい、ベンチでグロッキーな様子で一休み。

効率よく動く、体調よろしく機嫌も気分もよろしく動く、なんてことは大切にされず、ただただ、耐える、耐える。

就職活動中とおぼしき女性たち。白いシャツに黒の長そでスーツ上下。当然ストッキングに黒い靴。これまた、どよよ~んとした表情で、我慢我慢。

私たちは一体、何のためにこんなにまでして暑さと戦っているのでしょう?

暑いのだから、もっと楽な格好をしたらよいものを。

取引先だって、「上着もネクタイもしてこなくていいよ」と言ってあげればよいものを。

就職活動中の彼らにだれか、「暑いから、我慢せず無理せず、もうちょっと楽な格好したら?」と言ってあげたらよいのに。(第一、全員同じ服装で来られると、面接している側も誰が誰だかわからなくなることがあるものです。<新卒採用担当経験あり>)

スーツ着て、ネクタイ絞めて、暑い暑いといい、あちこちで一休みし、場合によっては体調崩し、熱中症で病院行ったり、いまひとつ力を発揮できない、とより一層残業したり。なぜか、そんな風に、非効率の方向に向かって全員で努力しているような。

かたや「節電」と言う
かたや「ちゃんとした格好をしてないと」とだれかに気遣う。

気遣う文化、他人と違うことしたくない文化、わかるけれど、何かおかしい。

地球にやさしいのも大事だけれど、自分にも優しく。思い切ってやっちゃおう。

そんなわけで、私はこの夏、もうスーツを着ない方針です。

2011年7月9日土曜日

「自発的に動く」について考える

「自発的に動いて欲しい」。誰もが部下・後輩、あるいは、同僚に対して期待することです。

「自発的に動いて!」と指示すること自体が、実は矛盾だったりするような。
だって、「自発」なのだから、「指示」の対象外のはず。

とはいえ、とにかく、それが組織の課題の一つ。

どうやって「自発」的に動けるようにさせればいいのか?
多くのマネージャが悩む課題だと思います。

放っておいても「自発」的に動く人もいる。
「自発」的に動いていいよ、と言っても、動かない人もいる。

「自発」的に動くのだけれど、そっちの方向に「自発」的に動かなくていいよ、という人もいる(たぶん)。

・・・

こういう行動の違いって、どこから育まれてくるのだろう?

2歳になったばかりの甥っ子をこの2年、ずっとウォッチしていましたけれど、平塚らいてう風に言えば、

「原始、人間は、自発的であった」

としみじみと実感します。

移動したい方に移動し、したい遊びをし、探求したい物体を探求し、・・・・。
何かを命令、指示されて動くわけではなく、すべて自分の考え、気持ちの赴くまま。

成長の過程のどこかで、腰がだんだん重くなるのかなあ。

子供には、ミッションがあるわけではなく、したいことをしているだけだからなのかなあ。
あ、でも、大人には「したいこと」は特にありません、というくらいに低体温状態の人もいるしなあ。

考えても、考えても答えは出ません。

一つだけ、たぶん、「これは効果あるだろう」と思うのは、

自発的に動いた結果、何か大きな風穴が開いたとか、世の中が動いた時間を持ったとか、その人にとっての「一皮むけるスゴイ経験」ができたら、それ以降、自発的に動くことに前ほどの躊躇はなくなるだろう、ということ。

ただ、じゃあ、どうやってその「経験」のチャンスを創造するか、が難しいのですよね。

・・・とりとめのないことを、あまり読まれていないであろうブログの方に書いてみました(笑)

2011年7月7日木曜日

遠隔地のOJT、異文化のOJT

企業のOJTは、新卒新入社員をターゲットにし、そこから長くて入社3年目までがOJT期間であることが多い。

基本的には、まず「若手の早期立ち上げをしましょう!」という趣旨である。

しかし、最近は、それだけではなくなってきている。キャリア採用者は即戦力と期待されていても、実際には、入社した企業については知識がない。新入社員ほど時間はかけられないし、かける必要もないけれど、最低限のOJTは必要となる。だから、キャリア採用者にも1か月から3か月くらいはOJTトレーナーをアサインして、指導や支援にあたってもらっているケースも見聞きするようになった。異動も同じ。

さらに、ここへきて、もっとグローバルなケースも登場してきたことに気付いた。

「僕は日本に勤務していますが、中国やシンガポールの拠点にそれぞれの国で採用した社員がいて、仕事力を高めるように支援しなければなりません。」

といった場面。

国が異なると問題になるのは言語?と思いがちだが、そうではない。

やはり、考え方、価値観、仕事へのスタンス、そういったものの違いに直面する。「これでよかれ」と思って行った指導が全く功を奏さないこともある。つまり、日本国内で、日本人同士でも生ずる問題が起こるわけだ。

ただ、より厄介なのは、それがRemoteということ。

Face to Faceで指導に当たるのがもっとも効果的だ、ということくらいはわかるけれど、現実問題として、そうそうかの地に飛べない。だから、指導するといっても必然的に、電話やメールになる。

ただでさえ、他人。そこへ持ってきて、異文化。さらに、リモート。

こうなってくると、コーチングでもティーチングでも、Face to Faceではない方法で最大限に効果を上げるにはどうしたらよいか、とか、ではその代りにどういうメディアを使えばよいのか、とか、異文化同士での人材育成って何に配慮すべきなのか、なんてことも考えなければならなくなってくる。

うーん、新しいテーマだ。私も「OJT支援がライフワーク」なんて豪語しているので、ここは新しく取り組むべき課題だ。

どんなことにでもあてはまると思うが、
●個別具体的に対応しなければならないこと
●世界中どこへいっても普遍的なこと
の両方があるはず。

OJTもきっとそう。

そのあたり、今度もお客様とお話ししながら、自分なりの考えを少しずつまとめていくことにしよう。

2011年7月2日土曜日

査読をお願いする資料にわざと「間違い」を埋め込んでおく、という方法

輪番休業の影響」というエントリーをアップした途端に「”木土休業”って書いてありますよ!」と誤字の指摘をTwitterでいただきました。(現在は”木金休業”に訂正済みです)

「あ、やっちゃった」と思ったものの、一方で「おお、読まれているのか、このブログ!」と嬉しくもなりました。

「誤字の指摘=読者がいたんだ」と認識した、というわけです。

それで思い出したのが、以前、後輩が言っていた「査読依頼の方法」。

私たちはテキストだとかテスト問題だとか、様々な文章を作ります。書いた本人が気づかないミスもあるので、同僚同士で原稿を回して、査読するんです。

ところが、ちゃんと見る人もいれば、ついついななめ読みする人もいて、誤字脱字を見落とすこともあります。

そこで後輩が考えた方法が、

「原稿の数か所にわざと”絶対に誰でも見つけられる”間違いを埋め込んでおく」

というもの。

”誰でも見つけられる間違い”は、ギャグみたいなのも含まれていて、絶対に違和感なくは読めないもの。原稿をちゃんとチェックしていたら、すぐ見つかるようなものらしいのです。

査読されて戻ってきた原稿を見て、その「明らかな間違い」すら気づかれていなければ、「あ、ちゃんと見てくれなかったな」とわかる、だから、査読を依頼し直す(その人に、または、別の人に)というのです。

いつもやっていたわけではないでしょうが、「そういう方法もあるよ」と自慢げに言ってました。

もう15年くらい前の話ではありますが、ちょっとのどかな思い出です。