2011年5月11日水曜日

「言い分」。

研修では、同じ組織の異なる立場の方に、別の機会でお会いすることがあります。

たとえば、ある日、「リーダー研修」でリーダー職の方と2日間一緒に学ぶ。
別の日、その方たちの部下層と、また異なる研修で3日間学ぶ、といった感じで。

リーダーがこんな話をしたとします。

「うちのメンバ、やる気が低迷していて、何を言っても反応が薄く、その上、指示したこと以外はやらないし、指示待ちで困る」
「そうそう、うちのチームも。やる気を出す工夫はいろいろしているけど、もう思いつかない。手を尽くした。どうしたらいいんだろう?」
「少しは自分で考えさせようと、最近は、あえて口出しも手出しもせずに任せているんだ」

・・・これを聴くと、「リーダーも大変ですね」と同情のひとつもしたくなり、「メンバをどうやって活性化するか」「メンバの行動に火をつけるか」なんてことを話し合ったりもしてみます。

後日、メンバの方とお会いし、現状で考えていることをお聞きすると、今度はこんな話が出てきます。

「うちのリーダーは、放置プレイタイプで、何にも教えてくれないし、何のためにするのかわからない仕事をさせられている」
「あれをしたい、これをしたいと思うけれど、すぐ却下されて、何もしたいことができない」
「リーダーの一言でずいぶんやる気をそがれることがある」

・・・・あれ?

リーダーの言うことと違うな。何か、違うぞ。

そう。

どちらにもそれぞれの言い分があるのですねぇ。

リーダーの見方だけが正しいわけでも、メンバのとらえ方だけが正しいわけでもない。どちらかが間違っているわけでもない。

それぞれの立場で、それぞれの思いで、「そう見える」というのが本当のところかも知れません。

こういう経験をよくすると、翻って、わが身に置き換えて考えるわけです。

私が、たとえば、上司のことを「●●だ」と思う、あるいは、部下や後輩に対して「××だ」と思うのも、一つの「見方・とらえ方」に過ぎない。私にはそう見える、そう思える、というだけ。

他者が、「淳子さんは、こういう人だ」というのも、よい評判も悪い評判も含め、その人には「そう見える、そう思える」、というだけ。

いえ、もちろん、「あたっている」「心あたりがある」ことも多々ありますが、人の評価にいちいち一喜一憂しなくてもいいかな、と思ったり。

他者をことさらに悪くとらえたり、評価したりする必要もなければ、自分のことを過大に評価したり、自らを必要以上におとしめたりすることもないのかな、と。

小泉さんではありませんが、「人生いろいろ、人もいろいろ、捉え方もいろいろ、評価もいろいろ」なのですねぇ。

・・・・・・と、今日はなんとなく、力の抜けたブログを書いてみました。

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