2011年2月28日月曜日

物事は捉え方次第だったりもする、というお話。

「人は、出来事そのもので苦しむのではなく、その捉え方によって苦しむのだ」といった言葉を、もう廃刊になったある雑誌で見かけたのは、20年ほど前のことです。

それが、アルバート・エリスのABC理論のことだと気づいたのはずいぶん経ってからでした。

たとえば、恋愛中の若い男女。私の若いころと違って、携帯で連絡を取りあえる、そういう現代。

「メール送っても返信がない」
「電話しても、折り返しかかってこない」

・・・が数時間のことであっても、焦ってしまう、というような話を聴くことがあります。(若手向けの研修の休み時間など、こういう「恋ばな(恋愛話)」がてんこ盛りです(笑))

「もう私のことを嫌いになったのではないか?」
「メールの返信をしないなんて、私の優先順位が低すぎやしないか?」
などと、嘆いたり、悲しんだり、はたまた、憤慨したり。

でも、これ、意味づけをしているのは、全部、受け手側なのですよね、考えてみたら。

事実は、「メールの返信がない」・・・。これだけ。
「電話が折り返しかかってこない」・・・。これだけ。

「嫌いになったかも」とか「優先順位を低くされている」というのは、相手ではなく、そう解釈しているのは自分。

「人は、出来事そのものによって苦しむのではなく、捉え方によって苦しむのだ」というのは、こういう例でもよくわかります。

ということは、です。

「出来事」は変えられずとも、その出来事の「捉え方」は変えられるかも知れない。

「あ、たまたま、忙しいのかも」
「今、会議中でそれどころじゃないのかも」などと。

ある出来事が起こったとき、それによって、感情が揺さぶられたとき、「出来事」の「捉え方」に「合理性」があるかどうかを自問自答してみる必要があるかもしれません。

ところで、以前、これまた新聞のコラムでですが、「90秒ルール」というのを読んだことがあります。(著名な精神科医か脳科学者だかの言葉だそう・・・。すみません、これも出典忘れました)

「ムカーっとしたら90秒他のことをする」

これで、気持ちがおさまり、「売り言葉に買い言葉」になったり、「売りメールに買いメール」になったりすることを防げる、というもの。

90秒もあれば、確かに「あれ?私、何に怒っているんだっけ?」と遠い記憶になりそうです。

しかし、実は、むかっとした時の90秒とは、とても長い。

「9秒」でもいいかも知れません。心の中で「九つ数える」。

これだけでも、ずいぶんと心が静まる気はします。

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ところで、ABCとは、

A:Activating events (現実に起こっている出来事)
B:Belief (信念)
C:Conseqeunce (結果)

のことです。

A→C (例:電話来ない→腹が立つ)

とはならず、

A→B→C (例:電話が来ない→浮気かもと疑念を抱く→腹が立つ)

となるものだ。だから、Bの部分を少し変えたら、Cも変わるんじゃない?というのが、ABC理論の考え方です。

A→B→C (例:電話が来ない→会議中だったかも→もちっと待ってみよう)

・・・なんて感じ。

ポジティブシンキングとは違って、「物事の捉え方」が合理的?と見直すところがポイントです。

(※なお、わかりやすくするために「恋愛」を例にとってみました(笑))

2011年2月25日金曜日

Be punctual!

夕べは、高校時代の友が久々に仙台から出てくるというので、急遽、クラスメイトを集め、男女8人で会食しました。

この友は10日ほど前、私にだけ「24日に東京に行くので皆に会えないかなー」というメールを送ってきました。

「淳子に連絡したら、なんとかしてくれるだろうと思って」というナイスな人選です(笑)。そこから思い当たる先にメールを送り、数日で8人を集めたのですが、平日だし、皆それぞれ多忙に仕事しているので、集まりは悪いかもと思っていたのですね。

事前に2人は、「仕事の都合」「終業時刻の関係」で「間に合わないかも知れない」と連絡くれていましたし。他にも数分程度は遅れるかなー、ま、時間になったら揃った人間だけで始めようかな、なんて思っていたのです。

しかし!

いざ蓋をあけてみたら、私を含めて19時ちょうどまでに予定通り6人が揃い、ワインを注文し、一口飲むか、というあたりで残りの2人もそろいました。

19時08分には全員着席していたのです。

なんとPunctualなんだ! 驚いたので、

「ねえ、これ、すごく奇跡的じゃない?会社の宴会なんか1時間遅れ、2時間遅れなんてざらだもんね」

というと、

「皆、ヒマなんじゃね?」と男性。

・・・・・ それは冗談として。

そうか。皆アラフィーなんですよ、繰り返しますが。

だから、たぶん、それなりのポジションなり仕事の仕方なりをしていて、「19時に新宿に」と思ったらたぶん、自分の意思でそれがかなり可能になってきたのではないかしら?

20代30代では難しかったかも知れない。

「会社を出ようと思ったら、上司に捕まって」
とか、
「さて、と仕度してたら、後輩に泣きつかれて、相談にのって」
とか、自分の行動が色々思うままにならないこともある(あった)。

アラ50歳だったら上記を全部振り切ってこられるのか、ということはもちろんないのだけれど、なんといったらいいのでしょう。2-30代と比べれば、うんと楽に「自分ペース」で仕事ができるようになっているんじゃないか、と思ったのです。

年を重ねるのも悪くないかも、です。(というと、下の世代に何か叱られそうですが(笑))

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旧知の仲間との会食は、爆笑の連続でした。

で、幹事して気づいたこと3つ。

1.アラフィーはあまり食べない
2.アラフィーはとても呑む
3.アラフィーは話が面白い(ネガティブな話題一切なし)

食事は楽しいに越したこと、ないですね。

2011年2月24日木曜日

「わかりやすさ」が大切な時も

昨日2月23日は、「223」=「にんぷさん」・・・というゴロで、「妊婦さんの日」だったそうです。
(ちょっと無理やり感がありますが)

それでちょっと思い出したことを。

妊婦さんは、ピンクのマタニティマークをバッグにぶら下げたりしてますよね。あれがあると、他人は、「あ、妊娠中なのだ」と気づきやすく、電車内で席も譲りやすい。(もちろん、「マタニティマーク」が何かを知っていれば、ですけれども)

特に、お腹が目立たない妊娠初期は、他人が妊婦だと気づけないので、当然、その他大勢と同じに扱ってしまいますが、安定期前の方が何かと不安、危険があるはずなのですよね。

時々、「妊婦とわかるのは嫌だ」といい、その手の服をあえて着ない人がいますが、それも危険だと思います。

わかりすぎるくらいにわかる、大げさすぎるくらいに大げさな服装をしているほうが、絶対に安全です。

同僚でもWM(ワーキングマザー)が何人もいますけれど、彼女たちが7ヶ月くらいになるまで、よく「なんか太ったなー、もしかすると妊婦さん?」という程度にしか思わなかったのです(私が超鈍感、というのもあります)。

女性同士でそうなのだから、男性だったらもっとわからなかったかも知れませんし、赤の他人だったら男女問わずに気づかないかも知れません。

「妊婦だ!」と伝わるような服装、ピンクのマタニティマーク。こういうものが「アイコン」(象徴)となって、自分の身の安全を確保できるように思います。(周囲としても、そうしてもらうほうが、気遣いがしやすい)

・・・・・なんてことを考えたのは、実は、父のことがあったからです。

父や77歳まで現役でフルタイムで仕事をしていましたが、70歳を過ぎた頃から、歩くのが多少困難になってきて、駅の階段はつらかったようです。

でも、「杖を使うと年寄りじみていて嫌だ」といい、しばらく、杖を使わずに通勤していました。階段では、手すりを持ちながら歩くものの、脇を通り過ぎる人は、そういう年寄りにお構いなく、猛スピードで走り降りていったりする。

とても怖かったと言います。

ある時、観念して杖を持つことになりました。

すると、前から来る人が道をよけてくれたり、待ってくれたり、あるいは、車内で席を譲ってくれたりするようになったそうです。

これも「杖」というアイコンが作用した結果だと思うのです。

自分の不調、自分の不安。そういうものは、他人はそうそう配慮できないものです。
特に、目立たないこと、目に入らないことは、配慮以前に気づくことすらできない。

であれば、自衛手段として、せめてマタニティマークや杖といった「アイコン」を持つことが大切なのではないかと思うのです。(それだってなかなか配慮は得られないものですが)

・・・・・・

ところで、こういう「外見」でわかる場合はまだよくて、「内臓疾患がある」「身体の手術跡が痛む」という、外からはわからない不調については、本当に難しい。

気づいてもらえないから、当然、他人から優しくされない。電車で席を譲ってもらうこともできない。

不調だからと「優先席」に座っていると、「若くて健康そうなのに」とシロい目で見られるのではないか、と内心びくびくしているという話も聴いたことがあります。

「見えないところが不調です」マークなんてないわけですし、こうなると他人は配慮してあげられない。

そういう「はたからはわからないけど、不調と戦っている人がいる」ケースも、なんとなく頭においておかねば、とも思います。(しかし、自分が健康だとそれも忘れがちになります。)

===== 追記 (2011年2月24日(木)17:30 )=====

なんと、「マタニティマークを知らない」という声を聞きました。

これです↓↓
http://maternitymark.com/

ご存知ない方は、「いいえ」をクリックすると、なぜ「マタニティマーク」が必要なのか、を解説しています。

是非、ご覧くださいませ。

2011年2月23日水曜日

「まじでヤバイくないですか?」

夕べ、ある方のTwitter上の発言を目にして、ふと思い出したことを。

2年位前。新入社員の育成を担当しているOJTトレーナー向けのフォローアップ研修で、
「OJTの状況、どうなってますか?」をシェアするオープニングの演習をしました。

そこで出てきた話が面白いの何の。

○ 「新人が”先輩、これ、マジでヤバくないっすか?”と言うので、”ぜんぜんヤバくないけど”というと、”いや、マジでヤバイっすよ”・・。よく聴いたら、”ヤバイ”って、いい意味でも使うのね」
○「”ガチで!”としょっちゅう言ってる後輩がいる。そういう言葉、止めろ!と言っているんだけど」
○「私も似た経験ある。”ちゃっきょしちゃった”・・・と言われて意、何のこと?と尋ねたら、”着信拒否”のことなんだってね。知ってた?」

・・・・・・

上記の例、既に「死語」もあるかもしれませんが(笑)、新入社員を迎え入れると、思いのほか「日本語クライシス」を体験してしまうことがあります。

「ヤバイ」「ガチ」については、「職場で使う言葉ではない、止めなさい」と指摘しても改善されず、先輩がずっと真似(オウム返し)していたら、新入社員が使わなくなった、とのことです。

※ここまで書いて思い出しました。以前も同じ話をこのブログで書いた気がします(汗。

2011年2月22日火曜日

「参照の枠組み」

こういうこと、ないですか?

Aさん:「逢いたい、逢いたいとずーっと言い続けていたら、やっと●●さんに逢えることになった!」
Bさん:「えー!?、逢いたい、逢いたいってしつこく●●さんに言い続けたの?そりゃ、まるでストーカーだね」

なんて解釈されちゃう。

あれ?なんか違うな、と思ったAさん、すかさず解説(というか、なぜか、言い訳を)。

Aさん:「いや、”逢いたい、逢いたい”と言っていたのは、独り言で、●●さんに直接言ったことはないんだけれど、そう願っていたら、逢えることになったんだよ」

さらに、

Aさん:「●●さんに逢う前に、●●さんの最新刊を読んで予習しておこう!」
Bさん:「え?●●さんの本を一冊も読んでもないのに、逢いたい、逢いたい、って言ってたの?呆れちゃうね」

何の勘違い?いや、そーゆうことではなくて・・と焦って、Aさん、再度解説を。

Aさん:「いえいえ、長いこと愛読者だったんだけど、最新刊はまだ手にしていなかったので、予習と言うのは最新刊のことですよ」

・・・・・・・

人は、「参照の枠組み」というのを持っていて、人の話を聞くときに(読むとき、でもいい)、その「参照の枠組み」でフィルタリングして受け取るので、発信者が意図した通り100%正確に解釈し、理解できるわけではないんですね。

「参照の枠組み」は、それぞれの人の知識や経験、考え、ものの見方、その時の気分、その時たまたま考えていただけのこと、その直前に体験したことなどから構成されているので、同じ人でも、との時々で「参照の枠組み」はしょっちゅう変化します。

・・・・・・・・

ま、発信者も受信者もそれぞれが、

●「私は正確に伝えている、絶対に正確に伝わっているはず」とは思わないこと
●「私は正確に理解した、絶対に間違った解釈はしていないはず」とは思わないこと

が大事なんでしょうねー。

ミス・コミュニケーションが発生したとき、それは「参照の枠組み」に起因していないか、を考えるのもいいかも知れません。

それに、何か起こったとき、「これって、”参照の枠組み”の問題かしら?」と考えているうちに、もし、感情が波立っていたとしても、直に気持ちは落ち着いてくることでしょう(笑)。


2011年2月21日月曜日

「自立」と「自律」

「”じりつ”した人になって欲しい」と多くの人が、部下や後輩に対して言うけれど、このときの”じりつ”は、

「自立」なのか
「自律」なのか、一体どちらなのだろう?

「自立」は、とにかく、「自力でできること」。だから、1歳児でも「自立」してできることはある。たとえば、ラッパを吹くとか、ポストを開けるとか。ストローでジュースを吸って飲むとか。

英語で言うと、”by onself”。

「自律」は、「自分なりの規範を持って、それに合わせて行動すること」。

こうなると、1歳児には難しい。

さて、新社会人に期待する”じりつ”は、どちらなのだろう?

たぶん、最初は、「自立」のはず。

「他人の手を借りずになんとか自分でできるようになってね」と。

新社会人が目指すべきことも、「自立」である。「自立」していないうちから、いろんな独自規範で行動されても周囲が困惑するばかりだからだ。

「自立」してできることが増えてきたら、次の段階が、「自律」。

これが、多くの方の言う「自分で考えて行動してね」という場合の”じりつ”であろう。

ただし、このとき、「自分<独自>の規範に従って判断し、行動する」のでは、ダメな場合がある。

勤務先の目的とか目標に適った規範、社会的に「是」とされる規範、倫理的にも「OK!」と思われる規範でなければよしとされないだろう。

「ジリツした人になってほしい」と多くの人がいうけれど、今自分が相手に望んでいるのは、「自立」なのか「自律」なのか。

言葉のイメージが明確になっているかどうか、上司や先輩も意識しないといけないと思う。

2011年2月20日日曜日

「自分のやりたいことを自分自身で許可する人」(シーリグさんの本から)

最近、激しく運動してますが、ジムで自転車やJobaにまたがる時は手持ち無沙汰なので、そこにおいてある雑誌をぺらぺらめくったり、持参の文庫本を読んだりしてます。一石二鳥!

昨日、Newsweek(日本語)(2.2号)を読んでいたら、ティナ・シーリグさんが来日し、大学で講演した模様のレポートを見つけました。

ティナ・シーリグさんは、昨年大ヒットした
『20歳のとき知っておきたかったこと』を書かれた大学の先生です。

その記事を見て、再度、本の内容を思い出しました。

「人には2種類:自分のやりたいことを誰かに許可されるのを待つ人と、自分自身で許可する人」 (← 一言一句正確な再現ではないかも、です)

この一文は、心にずっしり響きました。

「●●に困っている。だれかやってくれないか?なぜ係が決まっていないのか?」と文句ばかり言う人。

「●●をしたいけど、自分の立場じゃできるわけないし」と動く前から諦めている人。(← 無意識の内に「しないための言い訳」を真っ先に考えてしまっているのだと思う)

・・・・・・

「自分自身で許可する人」は、「係が決まっていないなら、係を決めよう」と提案したり、「係が決まっていないなら、ラッキー、私がやっちゃってもいいかしら?」と動いてみたり、「自分の立場でできるかどうかはわからないけど、(いろんな意味での)力を持っている人と協働すればなんとかなるかも」と考え、動いてみたりするのだと思うのです。

どちらが幸せか。

幸福感は人それぞれなので、「文句」や「愚痴」をこぼしている自分がとても幸せということもあるかも知れませんが、どちらが自分を主人公にして人生を楽しんでいるか。

という問いであれば、「自分自身で許可する人」なのではないかしらん?

人が「変化させたい状況」というのは、たいていの場合、法律など「凄く力の強いもの」に制約されているレベルではなく、半径5メートルくらいの問題のはず。

その半径5メートルのことで困惑しているのであれば、誰かがどうにかしてくれるのを待つのではなく、自分がちょっとでも動いてみたらいいのだと思うのです。

何もせずに諦めているのはもったいない。

それでも黙って諦めているならまだしも、「あれが悪い、あの人が悪い」と文句や批判を言いふらすのはもっと悪い。

ネガティブなメッセージは、それを発する本人の魂を傷つけるだけでなく、耳にした人、目にした人、大勢が、まるでタバコの「副流煙」のように浴びせられてしまうから。

「何かやりたいことがある時、それを自分自身で許可する人」。

力強いメッセージですね。

2011年2月19日土曜日

「受講者」という言い方を変えてはどうか。

研修を提供する立場としては、ついつい、参加者を「受講者」と呼んでしまいます。(さすがに、「受講生」とは言いません。生徒みたいなので。)

しかし、最近、よく思うのです。

「受講者」でいいのか?

「受講」の「受」は、「受ける」ということで、「受ける」というのは、その時点で「受身的な表現」なのですよね。

受講者ではなく、「学習者」と、「学びの主体はあなたたちですよ」という呼び方を社内同士の会話でも研修会場でもするべきではないか、と思うようになりました。

そう思ったきっかけの出来事を。

随分前のことです。ある研修で、グループワーク用に4人1組で座っていただいてました。

最初は、「知らない同士」が4人向かい合って掛けているので、なんとなくそわそわします。

しばらくしたら、「自己紹介」や「得て帰りたいこと」などを話すフリータイムを設けます。これで、アイスブレークは完了です。最初よりは、うんと和やかな空気が教室全体に漂うようになります。

数時間に1回、シャッフルして、色々な人と出会えるよう、グループ替えを行います。

また新しいメンバになるので、朝1番に行った自己紹介ほど時間は取らないものの、手短に「自己紹介やアイスブレーク」をしていただきます。

これで、新しいグループでも話がしやすくなります。

グループ編成は、休憩時間に入る直前に変えることが多いのですが、それは、休憩後すぐに次のステップに進めるからです。

何回もグループ替えを行っているうちに、講師主導で「今から5分取るので、自己紹介を」などと言わずに進めるようになりました。お互い、大体はどういう人かわかってきたかなあ、と思ったので。

ある演習をした時に、いくつかのグループがうまく成果を出せないことがありました。その振り返りの中で、「毎回とってくれてた自己紹介の時間を(講師が)設けてくれなかったからかも」という声が聞こえました。

研修後のアンケートでも「グループ編成を変えるたびに自己紹介タイムは設けたほうがよい」と記載されもしました。

・・・・

たしかに、その場をファシリテートしているのは私なので、ちゃんと時間を設けて「自己紹介しあいましょう」とリードしてもよい、といえば、よい。

ただ、なんとなく、ひっかかりを感じたのですよね。

グループ替えをしたら、かならず10~15分の休憩時間をとっていた。トイレに行き、タバコを吸い、飲み物を購入してきても、数分は余るはず。

クラスに戻ってきたら、再開前に、自主的に「自己紹介しようか」「この時間にお互いのことを知り合っておこうか」となってもよいのではないか、と。

現にこのクラスに参加していた方たちは、マネージャだったりリーダーだったりして、いつも部下に「自発的に動け」とか「自分で考えて、自分から行動しなさい」と口をすっぱくして言っているのです。

・・・・

「講師が”自己紹介タイム”を設けなくても、休憩時間の数分を自分達で使おう、とならないのはなぜだろう?」

ここがギモンに思えてきました。

それで冒頭のテーマに至るのです。

「受講者」という呼び方がいけないのではないか。

講師が主、参加者が副、というような「精神的構図」が生まれているのではないか。

私達講師がことさらに「講師だ!」とパワーを発揮しているつもりは全くないにも関わらず、参加している方が意識しないうちに「受身」状態になってしまうのではないか。

・・・

「学習者」と呼び方を変えたからと言って、すぐに何かが変わるわけではないけれど、

「学習する主体は、皆さんですよ。だから、受講していると思わず、学習していると思ってください」というメッセージを伝え続けていたら、「じゃあ、休憩時間をうまく活用しようか」と考え、動き始める人も出てくるのではないか。そんな風に思ったのです。

7時間のクラスは、午前1回、午後3回休憩を取ることになり、合計40分が休憩タイムになります。(ランチタイムを含まず)

業務時間にランチタイムを除き、40分も休憩していることはないわけで、だとしたら、「休憩時間を自己紹介などの時間に使おう」「休憩時間を使って、それまでに学んだことをノートに整理しよう」となってもいいはずです。

「学ぶのは誰か」。

これ、新入社員研修に限らず、ベテランのクラスでも強く意識していかねばならないことだなあ、と思うのでした。

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「学習者」というのも、実は、呼びかける際には、ちとフシギな語感です。

たとえば、
「受講者の皆さんには、この書類に・・」
とは言いやすいけれど、
「学習者の皆さんには、この書類に・・」
は、耳慣れないためか、違和感が。

もっといい表現はないのかな。

2011年2月15日火曜日

何のために「学ぶ」のか。

新入社員研修のスタートまで1.5ヶ月を切りました。
各社との事前打ち合わせも最終の詰めをする段階に入っています。

こういう打ちあわせをしていると、いよいよ4月が近づいてきているなあ、と実感します。以前も書きましたが、とにかく、知力に加え、体力増強し、4月に備えねば!と気合を入れ直しています。

ところで、新入社員研修というのは、たいていの場合、一斉教授方式で進められます。もちろん、最近は、講義をずっと聴いているというスタイルはあまりなく、ワークショップ形式、体験学習など様々な学びの形態がとられてはいます。

ただどういうスタイルをとったとしても、企業側のお仕着せの学習機会であることには違いありません。(それは悪いことでもないし、ある面、仕方ないことでもあります。現時点では)

新入社員にしてみると、入社式で社長の訓示を聞き、各部門紹介の説明を受け、その他新社会人として、あるいは、新入社員として最低限必要なオリエンテーションを受けたら、翌日くらいからは新入社員を集めた新入社員研修に入っていくことになります。

学校を卒業したら、もっと「学校っぽい」環境に数週間、数ヶ月身を置くことになるわけです。

だから、最初は、「社会人になった!入社した!」と緊張している彼ら・彼女らも、教室環境にずっといることでだんだんと「学生気分」が戻ってきてしまうことも多いのです。

ここだけの話ですが(笑)、新入社員の研修で、もっとも反応がいいのは、

「テストに出ますよ」

だったりします。すると、今までノートを取らない受講者も慌ててノートに記載したり、テキストにマーカーで線を引いたりします。

しかし、本来はそんなセリフでノートを取る行動を促し、学習意欲をかきたてるのは邪道なのですよね。

なぜなら、「テストに出ますよ」は、あくまでも「外発的な動機づけ」だからです。

それよりも、

●何のために新入社員研修というものが企画されているのか
●そこで何を学ぶことを期待されているのか
●新社会人として彼ら・彼女ら自身が何を目指して学習し、どう成長すべきなのか

をちゃんと理解させることのほうがうんと重要です。

新入社員自身が遠い将来・近い将来、自分は「こうなりたい!」と理想像を描き、内面から学習の必要性を感じ、学習し続けられるようにすることが大切なんですね。

それこそが「内発的に動機づけられた学習者」ということですし。

私たち旧人(新人ではない、ベテラン、昔から社会人をやっている、という程度の意味です)は、ついつい、新社会人でもある学習者に

●とにかく勉強しなさい
●とにかくこのルールを守りなさい

と、「○○させる」ことに気持ちを砕いてしまいがちですが、

本来、大人は「自ら学ぶ存在」です。

であれば、

●何のために学ぶのか

をきちんと意味づけするための支援から始めるべきなのです。

これは、私たち、人材育成の現場で講師をする人間だけではなく、各企業の人事部・人材開発部・研修部など事務局にあたる方にも同じことが言えます。

学習者自身に「学習すること、成長すること」の意味を考えさせ、学習者自身が「学びたい」「学ぶべきである」と感じながら、内発的に学びが進行する環境を作ることがまずは大事なのですよね。

2011年2月14日月曜日

「チョコレート」と「毛づくろい」の関係

猿って互いに毛づくろいをしますね。

親密であることを示すため、というか、「戦闘状態ではないよ」「敵じゃないよ」を表すため、というか。
とにかく、毛づくろいをし合うわけです。

で、「バレンタインデー」のチョコレートってのは、その「毛づくろい」に似ているかな。

特に、本命ではなく、「義理チョコ」だの「お付き合いチョコ」だの「友チョコ」だのっていうのは、「毛づくろい」の意味合いが強いような。

全員分を買ってきて、男性・女性関係なくチョコを分け合ったりして、チョコが嫌いならおせんべでも分け合ったりして、・・・それで、なんとなく、「職場の人間関係がほんわか」するなんて効果はあるやに違いありません。

・・・・

「チョコレートの交換」は「現代の働く大人にとっては”毛づくろい”だ」という説、いかがでしょう?

あ、でも、これって、私が以前から提唱?している「餌付け(作戦)」と同じ話ですね。

2011年2月12日土曜日

新しい体重計。

新しい体重計を買いました。

TANITAのインナースキャン50。まん丸でガラスのスケルトンタイプ。

なんと、乗ると自動で電源オン。登録している誰かなのかも推測して、前回のデータとの増減を矢印で示してくれる、優れものです。

1月からずっと週2以上の運動をしています。体重の変化は一時期あったのに、また高値安定。

でも、「体内年齢30歳」と表示されました。

「体内年齢」は、取説によると、

●体脂肪量が低く
●筋肉量が多く
●体格に対して基礎代謝量が高い

ほど、「若く(低く)」表示されるのだそうです。

そういえば、誕生日を迎えた日、 「30歳(16進数で)」 と言い続けていたので、この体内年齢も10進数かどうかアヤシイのですが(笑)、何はともあれ、体重より、体内に多少の変化が起こっているようだ、というのは、嬉しいことですね。

3連休もジム通いにいそしんでいます。

最近、「汗をかく」「筋肉痛」「息が切れる」・・・が、快感になってきました。

2011年2月10日木曜日

少数採用企業向けの合同新入社員研修

当社の前身である日本DEC教育部で「新入社員研修専用のカリキュラム」を発表したのが1990年のことです。それから21年、今年も4月から8月くらいまでは新入社員研修に多くの講師が活動します。(一般に、IT業界は他業界と異なり、新入社員研修期間が長いことが特徴です。)

採用数の多い企業様ですと、その企業向けに研修を提供しますが、1人3人7人といった少数の採用の場合、複数社合同で新入社員を育成しましょうか、となることもあります。

かつて(もう15年以上前ですが)、A社とB社とで合同新入社員研修というのを開いたこともありました。(同じIT業界ではありましたが、適用業務は異なる企業だったのですが、基本コンセプトが合致したので、そういうことに)

これは特殊な例なので、公開講座として、少数採用の企業向けの新入社員研修も開催しています。MIX TRAINといいます。(複数社をMIXして、ということですね)

このMIX TRAIN。これはこれでいい面があります。

新入社員は、入社して、すぐから「他流試合」をさせられるわけです。

新入社員研修というと、どうしても「学生気分が抜けないイベント」になりがちです。自社仕様で行えば、周囲は、同じ企業の先輩と同期しかいないので、どうしてもそうなります。

が、MIX TRAINの場合は、当社の施設にお越しいただき、最初から他社の新入社員とともに学ぶのです。新入社員といえども、「会社の看板を背負っている意識」を少なからず持つことになります。

だから、しゃきっとする。

研修の提供形態は本当に様々で、どのスタイルにも一長一短があります。MIX TRAINの場合、「自社独自のカリキュラムにはできない」という点が課題ではありますが、ITエンジニアとしての必要最低限の知識とスキルは学べ、対外試合のメリットもある、と考えるとちょっとオモシロいプログラムです。

「うちは、2人しか新卒採用がないのだが、研修を受けさせたい」と言う場合は、ちらっとURLをのぞいてみてください。ビジネスマナーなどヒューマンスキルのプログラムもありますよ。

 【採用数1名の企業様から参加可能:MIX TRAIN(合同新入社員研修)】
http://www.globalknowledge.co.jp/gkservices/newtrain/2011/mixtrain_introduction.html

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ホントに余談ですが、上記のA社B社合同新入社員研修では、A社とB社の男性と女性が後に結婚したことがありました。

2社合同新入社員研修の副産物?です。

このときの講師は、披露宴に招かれました。不思議なご縁がありますね。

=====追記(2/10:15時半)=====

複数社の新入社員を合同で研修するなら、「フォローアップのほうが効果が高いのでは」というご意見をTwitterで頂戴しました。

たしかに、ある程度、仕事をするようになってから、あらためて社外で他社同期にもまれると、いいフォローアップになるように思います。

2011年2月9日水曜日

「同じダメ出し」をされた時

先日、「まずは言ってみる」ことが大事なんじゃないか、というコラムを書きました。

「どうせ言っても、上司はわかってくれない」とか「お客さんに言っても、しょうがないよな」などと躊躇して、言う前から諦めていませんか?と。

それを読んだ方から、「確かに言う前から躊躇して諦める、という点もあるけれど、たとえば、”上司がわかってくれない”とした時、なぜ”わかってくれないのか”を自問自答すべきなんじゃないか」というご指摘を受けました。

つまり、こういうことです。例を挙げて説明しますね。

● 私が「ある企画」を提案した
●上司には、「これはダメだ。こう直せ」と言われた
●私は、その内容を咀嚼し、改訂した企画を再提出した
●上司には、「まだまだダメだ。ここがいかん」と言われた
●さらに私はなんらかの知恵を出して、企画を練り直し、提出した
●上司には、「ダメダメ」と言われた

何度かやり取りした後、やっと「受領」してもらえた。

それから日々が流れ・・・

●私は、何か「別の企画」を提出した
●上司には、「これはダメだ。こう直せ」と言われた
●私は、・・・再度挑戦した
●上司には、「まだダメ」と言われた・・

前回と同じパタンのやり取りが繰り広げられる。

このとき、私の頭に去来しがちな思いとは、

「この上司は、現場のことがわかってない」
とか
「この上司は、頭が固い」
とか
「この上司は、自分の思い通りにしたいのだ」
とか
「この上司は何を持っていっても、最初は”ダメだ”という」
とか、「相手に対する気持ち(評価)」ではなりがちじゃないか。

・・・・・・

本来ならば、

●なぜ、上司は、却下するんだろう?
●なぜ、上司は、いつも同じような対応をするんだろう?
●私の出している企画のどこがダメなんだろう?
●どうすれば、上司に「一発OK」をもらえるんだろう?
●上司が私に期待していることはなんなんだろう?
●私ができていないことはなんなのか?

を考えるべきなのに、ついつい、相手を「うぅぅぅ~~!もう!わからんちん!」と決め付けてしまう。

でも、
同じようなことを却下されたり、ダメ出しされたり、同じことで何度も叱られたり、注意されたりする、と、つい、相手が「しつこい」とか「頭堅い」とか思うケースもあるでしょうが、本当は、「同じことを言われる自分」のあり方を問うべきじゃないか、と。

上司を例に挙げましたが、対顧客でも全く同じことですよね。

●何度提案しても他社に負けてしまう
●何度提案してもお客様が満面の笑みで快諾してくださらない

受注後のサービス提供時になっても、

●よかれと思っていろいろ動いているが、改善要求が上がる

なんて時、

「重箱の隅をつつく方だなあ」などと思うのではなく、自分が「軌道修正できる箇所」を探すほうが健全ですし、相手の喜びにつながることだし、自分の成長にも結びつくことなわけですよね。

何度もダメ出しされる場合、ダメ出しする相手の「頭の堅さ」とか「こだわり」を云々する前に、相手が何を望んでいるかをつかみ、自分がしていることを「微調整していく」ことが大事なんじゃないの?と、そういうご意見を頂いたので、ここに記してみました。

ありがとうございました。 > 感想を下さった方へ。

2011年2月7日月曜日

上田信行著『プレイフル・シンキング』を読んでる

久々に本の紹介を。まだ1/4くらいしか読めていませんが、とてもオモシロいので。

●上田信行さん著 『プレイフル・シンキング』 宣伝会議

冒頭に「キャロル・ドェックの理論に恋してしまった」とあるように、ドェックの「こちこちマインド」「しなやかマインド」という考え方がベースになっています。

わくわくしながら学び成長するために、どう考えたらいいのかな?に触れた本。

最初の問いにドキッとします。

「あなたは仕事を依頼された時、”Can I do it?”と思うタイプ?それとも”How I can do it?”と思うタイプ?」

前者は、自分の今の能力でできるかどうかを考え、余裕があればできるけれど、ムリそうだったらあえて挑戦しない。

後者は、今の自分の能力には関係なく、どうやればできるようになるか実現方法を探っていくタイプ、と。

当然、成長し続けるのは後者の”How can I do it?"な人なわけですが、さて、皆さんは、どちらのタイプですか?

私は、後者です。成長できているかどうかは別として、お客様に無理難題っぽいリクエストをいただくと、俄然燃えてしまうタイプ。

そのほうが、仕事は楽しめますし。

2011年2月6日日曜日

いよいよ「走り込み」の季節です。

新入社員研修まで残り2ヶ月を切りました。

いよいよ本格的に「体力増進」に取り組んでいます。
最低でも週2でジムに通い、自転車、ウォーク&ジョグ、筋トレ、その他。

体重変化よりも、体力変化が大きい。

東京にお住まいの方なら分かるかも知れませんが、半蔵門線永田町から有楽町線に乗り換える階段。96段あるのですが、先日、2回も上り切ってしまいました。エスカレーターを横目に、よいしょ、よいしょと。

4月からを乗り越えるためには、まずは体力です。

各企業で新入社員研修を担当する方、OJT担当になる方も今から「体力」をつけておきましょう。 ぜひ!

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ちなみに、自宅では、1個3キロのダンベルを2つ。

ステッパーで朝、晩、おいっしょおいっしょと運動も。

さらに、23時前就寝を目指して生活改善中です。

2011年2月1日火曜日

「先生」と呼ばないで。

今朝(2/1)、Twitterでふと「先生と呼ばれることに抵抗がある。違和感を覚える自分でいたい」とつぶやいたところ、あちこちから反響があり、驚きました。

基本的には、「そうだね」「同意」というものでしたが、そもそもなんでこんなことを思ったか、をブログでは書きますね。

人材育成の仕事に携わっていると、研修で出向いた先の人事ご担当者やあるいは受講される方から「先生」「田中先生」と呼ばれてしまうことがあります。

そういう時、できるだけ早く「田中さんでいいですよ」と言うようにしています。

メールもしかり。

「田中先生、いつもお世話に・・」と来たら、返信の最後の方に、
「ところで、田中先生ではなく、田中さんでお願いします」と書き添えるようにしています。

企業の人材育成のお手伝いをする私たち講師というのは、「先生」ではないのですね。

学校の先生は先生でいいと思いますが、私たちは学びの支援をしているだけであって、「先生」といわれることには大きな違和感があります。
(ま、もちろん、「先生」と呼ばれることに喜びを感じる「講師」もいるかも知れません。実際、「先生と呼ばないでください」とお願いしたら、「いやあ、先生と呼ばないと怒り出す方がいらっしゃるので、トラブルにならないよう、全員「先生」と呼んでいるんです。「先生」で勘弁を」と言われたこともあります(笑))

「先生」と呼ばれることに慣れるのはとてもアブナイと思っているのです。

「先生」と呼ばれることで意識が「先生」になってしまう。どことなしに、偉そうになるかも知れない。だから、「先生」と呼ばれないと違和感を覚えるようになったら、かなり危険な兆候です。

一方、受講者にしても、「先生」と呼んでしまうことで、「先生がいっているから」「先生が答えを教えてくれるだろう」という風に考える構図もあるかも知れません。思考停止になるというか。

「働く大人」の学びの場では、「先生」も「生徒」もいなくて、「学ぶ人」と「学びを支援・促進する」人がいるだけ、だと思うのですねぇ。

だから、やはり、「先生」ではなく、「田中さん」と呼んで欲しいのです。

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もう10年以上前のことですが、とある大きな公共の研修施設にお邪魔し、ある企業の研修を担当しました。

その施設は、あまりに大きいので、「講師控え室」という大部屋が用意されており、いろんな企業から、あるいは、フリーランスの講師が、それぞれいろんな企業向けの研修を担当すべく集まって、休み時間を過ごしていました。

私は、そこで信じられないものを見ました。

ある男性講師(どなたかも存じませんが、50代とお見受けしました)が、お弁当を食べ終わってリラックスしたついでに、脚を机の上に投げ出したのです。他の人がいる場所でです。

別の男性(これまた50歳くらいでしたが)、携帯で大声でしゃべり始めました。社名をばしばし出して。

「この講師控え室で休憩してください」と通された私はいたたまれなくなり、持参のお弁当を食べたらさっさとその部屋をあとにしました。

部屋から出る際、ふと振り返ると、そこには、「どの研修の講師が控え室を使っているか」の一覧があったのです。

脚を投げ出していた方も大声で通話していた方も皆さん、いわゆる「ヒューマンスキル」の講師でした。マネジメントとかマインドを教えるような・・。

あれは本当にビックリしました。

「先生」と呼ばれて、裏でこんな風になってしまうもんかなあ、と思ったり、いや、「先生」と呼ばれなくても、まあそういう方たちだったのかも、ですが、こういう風にはなるまい、と心に誓った光景でした。