「最近どうも世の中がヘンだ。・・・中略・・・日増しにヘンになってきている。」
で始まる、東海林さだおさんのエッセイ。
たとえば、何が変か。
●「新聞や雑誌の活字」
日増しに小さくなるばかりか、印刷も年々悪くなる。
インクの色も薄く、ずれたりもしている。文字の大きさは、おととしと比べて半分くらいになってしまった。不景気のせいかも知れない。
●「自分の心の中が読み取られているような気がしてならない」
自分がしゃべろうとしている話を、周囲は既に知っている。人心判読機というようなののが売られているのではないか。
●「人の名前が、出てこない」
「アイウエオ方式」を使っても当てはまる人が見つからない。1日に何度も「アイウエオ方式」を使ってしまうことすらある。
●「本屋で面白そうな本を見つけて買って帰ると本棚に全く同じ本が並んでいる」
誰が買ったのか?自分しかいないのに。
・・・
『ショージ君の養生訓』 (文春文庫) の中に収められている一篇『五十八歳の告白』である。
私は 五十八歳よりひと回り若いけれど、それでも、上記の「世の中はヘン」を日々体感している。
まず、電車の中で文庫が読みづらい。読めなくもないが、全ての活字が滲んで見える。
大学の授業を受ける時。 教授の板書を追い、ホワイトボードをじっと見た後に、ノートに目を落とすと、ぼやーっとする。
ノートをじっと見た後に、ホワイトボードを見ると、今度は、白い板に何か黒っぽいものが書いてあるようにしか見えない。
焦点スピードが全く追いつかないのだ。
人の名前については、先日、同年代の友人はこう言っていた。
「昔は、アイウエオで順番に思い出していけば、”む”、あ、”村田さんだ”と思い出せたのに、わ・・・まで行っても出てこなくて、無理だとわかっているけど、一応”ん”までいって、やっぱりわからず、その人の名前は”アイウエオ”で始まらないんじゃないかとすら思う」
ある本は、読めば読むほど、「デジャビュ」感が漂うのだが、「雑誌連載の時に読んだのかな」などとのほほんとしていた。
後日、本を整理しようと、本箱の棚卸をして、同じものを3冊発見した時の衝撃といったら。
そういえば、同僚は、「家の中がどんどん暗くなる」と嘆いていた。電気をつけてもつけても、家中の明かりをつけても、まだ暗いと。
赤瀬川原平さんは、「老人力」と名づけている各種症状。(参考:赤瀬川原平 著 『老人力 全一冊』ちくま文庫)
老化した、などと悲嘆に暮れるのではなく、「老人力がついた!」と前向きに捉えるべし!と解く。
”老人”はまだ抵抗があるが、立派な「中年力」がつきつつある私である。
0 件のコメント:
コメントを投稿