2010年6月30日水曜日

旧ブログ記事:サッカーW杯:「批判してくれた人にもありがとう」(2010年6月30日掲載)

先週くらいまでは、「ねぇねぇ、TVでよくサッカーをやっているんだけど、なんで?」という質問をしていた私も、さすがに連日、これだけ報道されれば、多少の関心を持つようになりました。

普段12時前に就寝するのに、昨夜(6/29)は、TVのチャンネルを合わせ、Twitterでの皆さんの「つぶやき」というより、「おたけび」もたまにチェックしつつ、仕事をしておりました。
(相手チームが「うめずかずお」のような靴下をはいている、など、関係ない部分にどうも目が行きがちではありましたが)

延長戦に入る段階で1時だったので、「もう明日に差し支える」と思い、休みました。が、朝結果を確認し、「ああ、PKまで行ったのかぁ」とザンネンな気持ちにもなりました。

朝は、選手たちのインタビューをあちこちで放映していましたのを見て、印象的だったのが本田選手の「応援してくれた人、ありがとう。批判してくれた人も、ありがとう」でした。

こういう回答をする人は珍しいなあ、はじめて聞くせりふかも、と思ったのです。

「批判してくれた人もありがとう。批判があったからこそ、頑張れた」というようなことをそれに続いて言っていたように思います。(記憶があいまいですが)

仕事をしていると、皆が皆自分の賛同者になってくれるわけでもないし、ツマラナイことで批判されたり、どうでもいい些細なことを、直接ではなく、間接的にブチブチ言ってくる人もいるでしょう。

また、完全な勘違いのまま評論されて、こちらにはそれに反論する場も余地もない、というケースもあるに違いありません。まあ、世の中、理不尽なことも多いですから。

自分の支援者もいれば、批判してくる人もいる。

たいていは、「支援者」に感謝はするけれど、「批判者」については、反感を覚えるか、せいぜいできるとしたら、無視することです。そのほうが精神衛生上はいいから。

本田選手は、それを「批判してくれた人もありがとう」と言ったのでした。

とてもとても深い言葉のように感じます。

もし、職場で、プロジェクトで、あるいは、何か、新規にやろうと手がけ始めたところで、外野から批判されたら、その時、くじけるのではなく、無視するのでもなく、「そうか、そういう批判もあるんだな。でも、それを見返すくらいの成果を挙げてみようじゃないか!」と思えたら、批判すら自分のパワーになるんじゃないでしょうか。

心が痛むし、気分はへこむし、できれば、批判には目を向けたくない、耳も貸したくない、けれど、「なにくそ!」と思って頑張る力に変換していくことができれば、最後の最後で、「批判してくれた人もありがとう」と言えるのです、きっと。

マザーテレサは、「愛の反対は無関心」と言ったとか。

批判してくれる人は、まだ自分に関心を持っている。・・だから、批判に耐える強い心と、それでも負けずに「自分が信じる道」を突き進む熱い思いを持っていたいと思います。

何かにくじけそうになった時、本田選手の「批判してくれた人にもありがとう」を思い出したら、勇気百倍。そんなことを思った朝でした。

2010年6月29日火曜日

旧ブログ記事:行動する人(2010年6月29日掲載)

お客様先でちょーっとばかりいい話をお聞きしたので、紹介します。

「私は、IT技術もさることながら、ヒューマンスキルに関連する研修を受けたいと思い、この1-2年、上司から許可が得やすい環境を作るべく努力してきました。ようやく、上司も必要性を認めてくれたので、最近は、『これに行ってみたい』と上司に言うと、『おお、いっといで』と即決してもらえるようになりました。」

ヒューマンスキルが大事といって受けてくださるなんて!という部分に感動したのではありません。

この方の「とったアクション」にです。

詳しくお聞きすると、

●ヒューマンスキルっていろいろな種類があるけど、どれもこれも即効性があるわけではない
●だからって、組織力だとか仕事力にじわじわと効いてくることは実感している
●たとえば、「メールの書き方」という2時間くらいのセミナーに行き、「こういうポイントがあるのか」と理解し、さらに、社内・外の上手なメールが目に留まるようになったので、そういうものを真似して書くようにしていたら、周囲にもその方法が伝播して、「いいね、このメール」ということになる
●それは、目に見えない小さなことだけど、「こうやってシンプルで分かりやすいメールを書く」と結局、質問しなおすとか何度も確認する、という手間が省けるので、結果的にはコスト削減につながるし、互いに気分もいい
●学んだら学んだなりに、少しは成果につなげられるのだ、と証明してみせた
●だけど、現場はともかく、それを上の人が理解してくれるにはとても時間がかかる
●ボクは、この1-2年、研修に行く交渉をしては、権利を勝ち取り、戻ってきたら、上のほうの人にまで読んでもらえるような詳細なレポートを書いてあげていった
●地道に続けていたら、上のほうに「これはいいことだ。ぜひ、奨励しなさい」と賛同してくれる人も現れて、その上の人からうちのマネージャなどに「学習機会を与えるべし」なんてお達しがくれば、もう話は簡単
●というわけで、「研修に行かせてもらう」土台作りはできたので、うちの部署は、どんどん外に研修に行っているよ

というのでした。

「上司が認めてくれないから」「うちは予算が立てにくいから」「部下の成長に興味を持たない上司が悪い」など、なんとでも言いようはあるけれど、「誰がどうした」という話をしたところで、どこにも風穴は開かないわけです。

が、この方は、「自分が受けたい」と思い、「受ける交渉」をし、権利を勝ち取ったら、すぐに「上層部に訴えかける報告書」を作り、それだけではなく、「学んだことは、実務でどんどん取り入れてみて、周囲にも影響を与える」行動をとる。

そんな風に自分が動くことで、現状を打開し、自分がしたいことを実現できるように周囲を巻き込んでいったのでした。

「自分が実現したいことを実現するにはどう動けばよいか」を考えて、行動する。

当たり前かも知れませんが、それを評論家的に「そうあるべき」と語るのではなく、本当に身体を動かしてしまうところが素晴らしい。

いい話だ、と思ったポイントはそこなんです。

私もまた「評論する人」ではなく、「行動する人」でありたい、とわが身に言い聞かせたのでした。

2010年6月27日日曜日

旧ブログ記事:「夫婦も同じですよねぇ」(2010年6月27日掲載)

5月から8月は、全国の「OJT担当者」研修を担当する機会が多く、OJT担当者に各社で出会います。

「仕事の指示の方法」
「仕事の教え方」
「考えさせるためのコーチング」
「褒める、叱る」
「文章の添削」

など、Menuは沢山ありますが、そういうちょっとしたコツやノウハウを学び、「自分なりに消化した上で早速使ってみよう」と思っていただけるようにと願っています。

先日、研修が終わり、最後に名刺交換タイムとなったので、おひとりずつと話していたら、ある男性が、「ずっと1日考えていたんですけど、今日学んだことって、夫婦でも使えることばかりですねぇ。反省しちゃいました」とぽつり。

よく「子どもにも使えることですね」という感想はお聞きしますが、「夫婦でも・・」というコメントは珍しかったので、「そう思われること自体がすばらしい」と絶賛してしまいました。

誰だって、ちゃんと話は聞いて欲しいし、たまには褒めて欲しいし、理屈の通らない仕事はできればしたくないし。

家族でも同じ話ですよねぇ。

とはいえ、「さあ、じゃあ、妻を褒めよう」などと決意し、その晩、突然、「ご飯、美味しいね」「掃除、上手だね」などと口にしたら(普段していないのに)、喜ばれるよりは、怪しまれること必至です。

お気をつけあそばせ。

2010年6月24日木曜日

旧ブログ記事:先輩は後輩に夢を語ろう(2010年6月24日掲載)

先日、OJT担当者の研修の際、「後輩に伝えたいことは?」を考えていただいたら、こんな回答が出ました。

「仕事を楽しむ!」

理由を尋ねたら、
「仕事を楽しむ、というマインドで取り組んでいれば、問題意識も持てるし、前向きに改善提案もできるはず。勉強や努力だってできるだろう。楽しむが先にないと、やらされ感ばかりが募ると思うから。で、私は、常に”楽しむ”という意識で仕事をしています。”楽しむ”があれば、だんだん”とんがって”いけるじゃないですか!」

とのこと。

これを聞いていた他の方たちが、
「”楽しむ”という観点をすっかり忘れていた。新入社員に伝えるだけじゃなくて、自分がまず、”楽しむ”ことを思い出さなければ」
と口々に言っていました。

・・・・

別の企業でOJT担当者研修をした際。

「ああ、そういえば、後輩に夢を語ってやってないなぁ、最近」と反省しているリーダーがいました。

「つい愚痴っぽいことは聞かせちゃうけど、夢や希望を語るのを忘れていた」と。

こんなご時勢ですから、職場の会話もついついネガティブなものになるかも知れませんが、言葉というのは、魂を持っているので、「ネガティブな言葉」を使い続けるとどんどん雰囲気は悪くなり、モチベーションも低下させるような気がします。

「ポジティブな言葉」は人を活性化させ、前向きにさせていく効果を持つはずです。

7/1に新入社員が配属される企業も多いこととでしょう(特に、IT系は)。

後輩に語れる「夢」や「希望」。
後輩に見せる、仕事を「楽しむ」姿。

今のうちに再確認しておきたいものです。

2010年6月22日火曜日

旧ブログ記事:アメリカ式の研修を日本でやりたい(2010年6月22日掲載)

アメリカに3回、受講に行ったことがあります。全部で5クラス参加しました。

いずれもヒューマンスキルの研修。もちろん、アメリカ人の講師。参加者もほぼ全員がアメリカ人。(全クラスを通じてアメリカ人でなかったのは、たった一人のカナダ人(しかもケベック州のフランス語ネイティブな彼)。そのほかの外国人はいつも私だけ。極東の小娘としてちょこんと教室に座っている)

毎回、思うことがあります。   アメリカ人の受講風景は、「自由だ!」です。

●講師が講義している途中、突然、立ち上がり、後ろの席まで行って、机に腰掛けたまま聞いている
●突然教室から出ていき、しばらくして、コーヒーとマフィンを持って戻ってくる
●講義中、思いついたことがあったら、手を挙げ、すぐ発言する

など。

このうち、机に座って受講とかコーヒー取りに行くとか、なんでこんな「自由奔放」な行為をするのかというと、彼らの「眠気対策」なのです。

眠い!まずい!じゃ、立ち上がろう!
眠い!やばい!じゃ、コーヒー、取りにいってこよう!

・・・・

講師は、こういう光景になれているので、一瞥もくれません。普通に淡々と進行します。

こういう講義風景にあこがれます。だって、受講者が真に「自立・自律」しているように思えるからです。

日本人は、子どもの頃から「行儀よく座っている」ことを「是」として、仕込まれてきましたので、講義中に立ち上がることも、教室から出て行ってしまうことも勇気がなくてできません。(私が受講者でもなかなか出来ません。)

でも、その分、眠くなると、どうしてもうつらうつら。白目をむいて我慢していたりして。

講師だって、演習を入れたり、突然、「そういえば・・」と脱線してみたりしますが、限界があります。

こんな時、「ああ、アメリカ人のように、日本の教室も自由度が高ければ」と思うのです。

いや、こんなことは、講師である、私が皆さんに「立ち上がっても、出て行ってもいいですよ。その代わり、居眠りしないでください。セルフマネージメントしてください」と最初に言えばいいのかも知れません。

言われてもなかなか染み付いた受講態度は変わらないかも知れないけれど(だって、価値観みたいなものは、そうそう簡単に捨てられないから)、でも、言ってみる価値はあるかなあ。

アンケートに「講師は眠くならないような工夫をしていた」とか「眠くなる時間帯は配慮して」などと書いてあることがあり、あくまでも他力本願なのが、日本の受講風景。

アメリカ人は、決してそういうことを書かないような気がします。

●一見行儀悪く見えるけれど、自分で寝ないようにセルフコントロールするアメリカ人

●行儀よいけれど、眠気に耐えられない日本人、

学び手として、どちらがよいのでしょう?

私は、講義中にうろうろされても、立ち上がられても、突然、発言されても、急に出て行かれても、驚かない自信があります。

なので、ぜひ、皆さん、もっと自由に受講していただきたいのです。

なぜならば、その時間をもっとも有効に活用しなければならないのは、学び手自身だからです。

・・・

というわけで、今後、「自由にしてください」と宣言してみることにします。最初は誰も動かないでしょうが、言い続けていたら、そういう「アメリカ人」のような受講者がぽつぽつ出てくるかも知れません。

あとは、人事部など主催者事務局が「行儀悪くしない」などと固いこと言わないようにお願いすることですね。

2010年6月21日月曜日

旧ブログ記事:「私がやった方が早い」症候群(2010年6月21日掲載)

「俺がやった方が早い」と思ってしまい、ついつい、自分で全部やっちゃう。

「私がやったほうがきれいにできる」と考え、任せられない。

「どうしたいの?」と最初はコーチングを意識して会話しているんだけど、徐々に「僕ならこうする」とアイディアを口にし、最後は、「というやりかたで、僕がやる」となってしまう。

・・・・・というような話をよく聞きます。

「私がやった方が早い」症候群。

部下、後輩に任せるのは、勇気がいるだけでなく、忍耐力も要りますね。

「私がやれば、10分でできる」と思うことを「1時間掛けてさせてみる」とか、「私がやれば、ミスなしでできる」ことを「ミスを何度も直しつつさせてみる」とか。「いらいら」っと来ることを我慢する。

納期まで時間がない時は、仕方ない。「私がやっちゃうわ」でもいいでしょう。(だって、お客様を待たせるわけにもいきませんし)

でも、相手を「育てよう」と思っているのに、最後は、「私がやるわ」では、話がちと違ってきます。

どうすれば、「私がやった方が早い」症候群を克服できるのでしょう?

難しい問題です。

ふと思ったのですが、自分が何かとてつもなく難しいことに挑戦してみる、というのはどうでしょう?

やったことないし、知らない知識や技術をたくさん使わないといけないし、もう、とてもじゃないけど、「私がやったほうが早い」などといって、後輩に任せるのに躊躇している場合じゃあない。今までの仕事を誰かに任せないと、この「とてつもなく難しいこと」に挑戦する余力が生まれない。

そういう環境・状況に自らを追いやるというのは?

「ああ、もうこれは、あなたに任せる。困ったらサポートするけど、自分で考えてやってみて」と任せなければ、自分が一歩も先に進めないような状況に自分の身を置いてしまう、というのは、どうでしょうか?

「自分が挑戦すべき新しいことをまずは見つける」
「それに挑戦しようと腹を決める」
「すると、おのずと仕事を手放さざるを得ない」

・・・

というのは、ちょっと難しいのでしょうか。やろうと思えば、できる職場や職種、立場もあるような気がします。

それにしても、忘れてはならないのは、「自分に誰かが何かを任せてくれた」から、今の自分があるということ。そうでなければ、新入社員の時となんら変化していないかも知れません。

誰かが、しかも、多くの人が、「私がやったほうが早い」と思わず、ぐっとこらえて、若造であった私(たち)に何かを任せてくれたんですよね、過去。

「自分がやった方が早い」と思ってしまう仕事を、「あなたがやったほうがもっと早い」仕事に変換していくのが先輩の役目かなぁ、と思うのです。

2010年6月20日日曜日

旧ブログ記事:アンテナまちまち(2010年6月20日掲載)

先日、わたくし、社内で、

「最近、サッカーの試合を毎日やっているように思うんだけど、なんで?」

という、我ながらソボクな疑問を口にしてみたところ、多くの人に

「え?イマドキ、そんなことを言っている人がいるなんて!」

と驚かれたのですが、どうやら、W杯で世間は盛り上がっている様子。

夕べのTwitterでも多くの人が実況中継してくれていたので、その盛り上がりはなんとなくわかってきました。

田中がかなり珍しい部類に属するとはいえ、同僚の横山哲也も私と同じような知識と関心量らしく、セルジオ越後という固有名詞を夕べ初めて聞いたとTwitterでつぶやいていました。(見知らぬ方のつぶやきでは、「セルジオ越後は、新潟のサッカーチーム名だと思っていた。まさか、人間だったとは?」という、くすっとしてしまうものもありました。)

これほど世間を騒がせているような話題であっても、知らない人がいる。全ての人の興味・関心が同じ方向を向いているとは限らないのですね。

ましてや、社内。

たとえば、

「新製品が完成したので、社内向け商品説明会を行った」けれど、数週間もしない内に、「そういう新製品があるんだったら、もっと早く教えてよ」と言われることがある。(説明会開いたし、メールや社内掲示板でも告知したじゃない、と発信者は思う)

たとえば、

「Xというサービスにこういう導入事例があるから、他社でも横展開したい、と多くの人に伝えた」つもりだけれど、1ヵ月後に営業から「Xってうちでは事例まだないよね。実績ってないよね」と言われ、愕然とする。

たとえば、上司が部下に、「今年はこういう方針で、これに挑戦するから、皆もそのつもりで情報を集めておいてね」と年初に言ったけれど、半年くらいしたら、部下から「今年の方針ってちゃんと聞いたことがない」などと文句言われることもある。

・・・・・

これら、全て「聞いていない方が悪い」と片付けるのは簡単ですが、それで問題が解決するわけじゃあない。

サッカーのNEWSを毎日、いや、朝も昼も晩もTVや新聞や、あるいは、人々の会話ででも耳に、目にすることがあったとしても、「サッカー、なんで毎日やってるの?」などと言う人(=私です)がいる。

アンテナが立っていない人には、引っかからないわけですね。

サッカーならまだいい。趣味の範囲だから。

ところが、仕事だとこれじゃあ困るわけです。少なくとも情報発信者側はとても困る。

じゃあ、どうすればいいのか。これ、とても難しい問題です。

どの企業でも「情報共有が課題」と言います。それが課題じゃないという企業やチームにまだ私は会ったことがありません。必ず、課題のひとつとして「情報共有」というキーワードは上がります。

だから、色々なツールや場を使って、情報を提供しようとするのだけれど、それには限界がある。サッカーと同じで、アンテナが立っていない人には何を使おうが届かないから。

ツールや場以前に、アンテナを立てさせる、アンテナの感度を上げる必要があります。

ただ、どうすればよいのか、というのは、「これ!」という答えが見出せません。特効薬があれば、私も教えて欲しいくらいです。

発信者側は、「相手のアンテナ」が自分と同じ方向に向いて立っていて、同じように情報をキャッチしているとは限らない、という事実だけは知っておくべきですよね。

「知っているはず」「わかっているだろう」「伝えたから理解したに違いない」というところから、ずれは生じるのでしょうから。

2010年6月17日木曜日

旧ブログ記事:「ストレッチ目標」の実現に欠かせない存在(2010年6月17日掲載)

「ストレッチ目標」という言葉がありますね。「背伸び目標」と言ったり、「本人の実力の120%程度の目標を与えるといい」といった表現を使ったりしますが、要するに、「ちょっと頑張らないといけない仕事」を与えることで、その人の成長を促そう、というものです。

この「ストレッチ目標」として与える仕事は、桃ラー(※)風に表現すれば、「できそうで できない 少しできる仕事」とも言えます。 (※桃ラー:桃屋のラー油「辛そうで辛くない少し辛いラー油。現在、ヒット中で品薄状態が続く商品)

こういう「できそうで できない 少しできる仕事」で人を育てようという時、まず思いつくのは、その人の上司や先輩の存在です。

●上司が、部下にできることばかりさせないで、部下がちょうどよいくらいにストレッチできる仕事を与える必要がある
●先輩は、そういう仕事を任された後輩をたとえば、OJTの場面で支えてやる存在であるべし
●あるいは、先輩は、「そろそろこの後輩には、もうちょっとストレッチなことをさせてもいいかな」と思ったら、上司に「一段高い仕事を任せてみては?」と提案する
●上司や先輩は「ストレッチ」させた時に起こりうるリスクに備える(失敗をどうリカバーするか、とか、うまくいこうがいくまいが、どう本人にフィードバックするか、とか)

・・・

まあ、他にもあるでしょうが、とにかく、「ストレッチ目標」といったら、すぐ上司や先輩の存在が大切だよね、という話になります。

ただ、このとき、もう一方で、忘れてはならないのが、その「ストレッチ」な仕事の受け手の存在です。

●ある人が、今まで手がけたことのない、少しハードルの高い案件を任された。お客さんからしたら、「できればなれたエンジニア(営業でも講師でもコンサルタントでもなんでもよい)にお願いしたいけどなあ」と思う。
●でも、そこでお客さん側が、「ここはひとつ、ぐっと我慢して、この人の成長に付き合ってやろう」と腹をくくる、というか、どっしり構える

なんてことができたら、その人は育つチャンスを得られるわけですね。

ところが、そんな理想的なことにはなかなかならないのが現実です。

たとえば、こんな話を聞きます。

●プロジェクトで、顧客との会議に自社の新人を同席させたい、と顧客に打診したら、「お宅の新人の教育をうちの会社でやらないでくれ」と断られた
●「端っこに座っているだけでいいです。うちの手弁当で同席させるだけでもダメですか?」と食い下がると、「そうはいうけど、椅子に座るでしょ。空気吸うでしょ」くらいの勢いで拒絶された

・・・

上司や先輩がいくら「育てよう、ストレッチさせよう」と覚悟を決めても、それを受け入れてくれる存在がなければ、若手は「成長チャンス」を得ることができないのですね。

そういえば、以前、身内が入院・手術を受けて数日経って見舞いに行った時のこと、

「ねぇ、手術の時、途中で若いセンセに替わっているんじゃないかしら?”ここだけやってみる?”なんて・・」
「そうだろうねぇ。チーム体制になっているんだから、あの若センセのほうが途中でメス握ってたかもね」
「そうよね。そうしないと、お医者も育たないもんね。私はそれで構わないわ」

こういう患者がいれば、医師はストレッチの体験ができるんだなあ、と思ったものでした。

翻ってわが身のこと。

あと3週でオシマイとなる「日経BP朝イチメール」。

昨夜のTwitter上で数人の読者さんとやり取りをしたところ、
「田中さんの文章はだんだん角が取れて読みやすくなりました」
といったコメントを頂戴しました。

私は、プロの作家・プロのエッセイストではなく、あれやこれや試行錯誤し、編集者に叱咤激励され、途中、泣きそうになりながらも書いてきましたが、最近、ようやく、われながらまあまあ上手にまとめられるようになったと感じられるようになりました。

今思うと、最初のころのエッセイは、「チカラが入ってしまって」がちがちに緊張しているのがわかるような文面です。今はずいぶんと自然体になってきた気がしています。

読者の皆さんもそれには気づいていらっしゃって、「へたくそだけど、まあ面白いから許す」とか「これから伸びるのを待ってやろう」と長い目で、あるいは、大目に見てくださったからこそ、1年間続けてこられたのだと改めて気づかされたのでした。

人は1人で成長するわけではありません。

「俺は誰からも育ててもらっていない」
「私は自分の道を自分で切り開き自分の才覚でここまで来た」

と思ったとしても、

どこかに、私たちがしている仕事の相手がいて、その相手が、ときに黙って受容し、ときに我慢し、失敗や不調法を許し、ときに叱咤し、励ましてくれるからこそ、成長のチャンスが得られるのです。

「ストレッチな仕事」を支えるのは、上司や先輩だけではなく、
仕事の受け手が必ずそこにいて、そういう人たちが「ストレッチ」を受け入れてくれるからこそ、成長できるという面があることを忘れてはいけないのですねぇ。

自分が「サービスの受け手」になった時も同じことが言えて、「今は新人クンがOJTで頑張っている時期だ。多少の無作法は許そう」と思う度量が必要なんだと思うのです。

・・・・・・

あなたの成長は、他の誰かが支えてくれている。
あなたは、誰かの成長を支える存在になればいい。

そうやって、人は互いに成長支援をし合うものなのでしょう。

★朝イチメール、今日6/17(木)中に登録すれば、月曜日から最終回までの残り3回分全てを着信できます。よろしければ、今晩中にご登録くださいませ。無料です。

2010年6月16日水曜日

旧ブログ記事:日経BP朝イチメール終了の告知(7/5が最終回)(2010年6月16日掲載)

日経BP朝イチメールをご購読くださっている皆様、

先日(6/14)の田中コラムの最後にちょろっと書いてあった通り、「7/5週」を持ちまして、朝イチメールは終了することになりました。

2009年7月13日(月)から開始したサービスですので、丸1年が経過します。 田中のコラムは、当初、水曜日配信、4月から月曜日に変更されました。7/5(月)が私の担当分、最終回です。47回目で終了です。

月間連載(日経ITプロフェッショナル、日経SYSTEMS)、隔週連載(日経コンピュータ)は経験があったものの、「週刊」は初挑戦でした。

お勉強講座以外のエッセイなど書いたことがなかったので、日経BP社のプロデューサー氏には叱咤激励されまくり、だんだんと成長できた気がします。(今読み返しても、初回の頃より、今のほうが断然、よい仕上がりになっている、とわれながら思うわけです)連載しながら、文章修行をさせていただいてしまいました。読者の皆様、本当に感謝です。

途中、体調を崩したり、大怪我して原稿が書けなくなったり、仕事でにっちもさっちもいかなくなったり、身内がどうにかした、などという不測の事態が起こらないようにと祈りつつ、なんとか無事故でここまで来ました。

あと3回、まだ終わりではありませんので、気を引き締めて原稿書きにいそしみます。

まだお読みいただいていない方は、明日6月17日(木)中にご登録なされば、来週月曜から、ラスト3回分が読めます。無料ですので、最後の最後にお試しくださいませ。

多くの方にお読みいただき、ここ2ヶ月ほどは、Twitterで感想を頂戴することも増えてきたので、本当に双方向のコミュニケーションまで楽しめました。応援していただきまして本当にありがとうございました。

ケイタイだけの連載なんて、どんな風になるのだろう?と思っていましたが、最後には、「書籍化」されることとなったことも予想外の喜びです。 6/18(金) 「コミュニケーションのびっくり箱」、電子書籍として出版されます。(詳細は6/18に公開します) こちらもあわせてよろしくお願いいたします。

田中淳子

==========

連載開始前後は、大量のエッセイ、随筆を読みました。プロの。
本当に今まで触れたことのない作家さんのものも。

そして、エッセイの書き方を自主トレしたつもりでしたが、まだまだだなー。
朝イチNEXTがあれば、さらに成長した私が見せられる・・・かも。

何はともあれ、人生、一生勉強、一生成長。


2010年6月13日日曜日

旧ブログ記事:「社会化」と「個性化」(2010年6月13日掲載)

諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)を読んだ。

最終ページにあった以下の部分がとても印象的だったので、まずは紹介。(同書 P.231-322)

●「社会化」されている間になくなってしまうようなものは、「個性」ではない。まさに、「個性」が「個性」でありうるために「社会化」が必要なのである
●「個性化」のまえに、「社会化」が必要である
●「個性」は、「社会化」される過程で、「社会化」に還元されないその「個」の個別性として浮上してくるものである
●いったん市民(国民)として自立したうえで、「自分がどう生きていくか」(「個性化」)はまったくその「個」の自由に委ねるべきである。

この本は、中高生を中心とした「子ども」の「オレ様化」について解説しているが、私には子どももいないし、現在の学校の状況がどうなっているかを肌で感じる体験はしていないので、学校教育と子どもについて云々するつもりはない。

引用・紹介した部分を読んで私が感じたのは、「新入社員」の育成でも同じことが言えるのではないか、ということだ。

「個性」「自分らしさ」を追求し、「自分らしいこと」を全面に打ち出す前に、企業人としての「社会化」プロセスが必要なのだ、と読み替えることが出来る。

多くの人事・人材開発担当の方とお話ししていると、時々、「ん?それは違うんじゃないか」と思う事例を耳にする。

たとえば、
●「新人研修で、こいつ、寝ないで頑張っているんですよ。一人だけ。変なの」と、寝る自分のほうが正しいと主張する新入社員とそれを聞きながら、ただ苦笑いをしているだけの人事担当者。どうして叱らないのですか?と尋ねると、「最近の若手はそんなもんかなあと思って」と気にする様子もなく、何か変。
●「新入社員の何分の一かが”ウォレットチェーン”を腰からぶら下げていて、あれは、ビジネススーツにいいのか?」とは思ったけれど、「ファッションなのかなあ」と思い、今年は認めた、と仰る方。それも何かがちょっと変。
●「身体を大事にすることは重要だから、新人研修中に具合が悪かったら、すぐ休むように」と何度も言ったら、新入社員研修の期間中、全日程無遅刻無欠席だった新入社員は、ゼロだったという企業。「ちょっと体調が悪そうなんで、今日は休みます」というTELで認めているのだそう。(具体的に熱があるとか症状があるではなく、”体調が<悪そう>なんで”で、そんな簡単な理由で多額の投資をしている新入社員研修の受講をしなくてよい、と許可してしまっていいのか?と私は疑問)

こういった話を聴くにつけ、なんだか「???」な気分だった。(幸いにして、今年は今のところ、こういう例を聞かない)

「個性」を大事にする前に「社会化」が必要、の箇所に大きく響いたのは、上記が全て「社会化」の前に「個性」を大事にし過ぎたための現象に見えるから。

本書にもあるように、「ちょっと社会化されたくらいで消えてしまうような”個性”は本来、個性じゃない」はずなのに、「ウォレットチェーンを認めないのは、没個性を組織が強制している」みたいな論調にもしなるとしたら、やはり何か違和感がある。

ビジネスパーソンとしての、ある程度ルールに従った「服装」なり「行動」なりがあるからこそ、組織は動いていて、まずは、その基本のルールや形式を学び、全部消化したうえで、その中から「個性」を打ち出していけばよいのだ。

それに、一度全てのルールや形式を学んでから、それでも「ここだけは譲れない」というのが、本当の「自分らしさ」なのではないだろうか。

この本では、別のページで、「社会化」はよくないから、「個性化」が大事、とやりすぎた結果、自分の規準が作れない子どもが妙な方向に進み、それを「個性だ」と思ってしまう現象についても述べている。「規準」がないところに、「自分らしさ」を設けるのは難しいから、そうなってしまうのだろう。

このことはは、昔からある「守破離」という言葉も実は同じことを表現しているはず。

IT企業は、7/1に新入社員の配属が行われるケースが多い。OJT担当者に任命された先輩達は、今、職場への迎え入れ準備で忙しい時期である。(私の、その「OJT担当者」支援研修で全国飛び回っている)

「個性化」の前に「社会化」。

うまく伝えないと、「全員一律に無批判に同じ方向を向いてやれというのかー」と批判を受けそうだけれど、そういうことではないので、あしからず。

========お知らせ========

2009年7月15日から2010年3月31日まで配信された日経BPケイタイ朝イチメール「コミュニケーションのびっくり箱」が「電子書籍化」され、今週6月18日(金)に発売されます。

ケイタイ専用の文庫仕立て。なんと「縦書き」で、流麗な雰囲気の”紙面”です。
詳細は、6/17(木)に紹介します。

よろしくお願いします。

*** 追記(2011年5月28日) ***

この「電子書籍化」は、正確にいうと、「デジタル版」と言い、3Gケイタイでダウンロードできるものでした。今も販売はしていますが、最終回までが収録されているわけではないので、あまりおススメしません(笑

2010年6月12日土曜日

旧ブログ記事:救急車を呼んだ顛末(2010年6月12日掲載)

当人が「ねぇ、ねぇ、田中さんのブログにぜひ書いて!」とおっしゃるので、許可を得て、以下、報告します。

数週間前、毎週木曜日夜通っている上智大学の社会人向け公開講座の後、教授とクラスメイトと共に、懇親会。

11時ごろ解散し、南北線四ッ谷駅を使う数人でホームに。

一人(男性)が、「ちょっと私、顔、白くないですか?」と精気ない表情でおしゃり、ホームの柱によりかかりました。

ん?どうした?と思う間もなく、「目の前が真っ白で見えない」と言い出し、へたへたへた・・。

その時、一緒にいたのはシニア男性と中年私。
「駅の事務室に行きましょうか、とりあえず。休ませてもらえるかも」
と支えて、階段上がって、東京メトロ四ッ谷駅事務室へ。

そこにいたのは、駅員さん(男性2人、女性1人)。

まずは、ソファに座らせてもらったのですが、ご本人、呼吸や脈がおかしいと自己診断して、本当に様子が変。

なによりも心配したのは、「一滴もお酒を飲んでいないこと」。

駅員さん、
「救急車、呼びますか?」
「はい、お願いします」
で、119番へ。

ご本人の保険証を借りて(意識はちゃんとあった)、コピーしてもらったり、お水が飲みたい、というので駅員さんに「コップ一杯でいいので、お水いただけませんか?」とお願いしたら、冷えたミネラルウォーター(500ml)を出してくださったり。

10分もしない内に「新宿御苑第●隊」救急隊員3人が颯爽と登場。

その場で、心電図取るんですね。ミニプリンターから、ささーっと印刷。同時に脈と血圧。
会話もして、様子を確認。

「心電図取りました。除脈は出ていません。血圧も脈も、異常値というほどではありません。これから搬送しますが、よろしいですか?」

と、てきぱきてきぱき。

向かいに座っていた私、救急隊長と思われる方に、

「オクサンですかっ?」と言われ、
「いいえ」と答えたものの、
『違う・・けど、私は誰?友達?クラスメイト?クラスメイトって言っても中年だしな』とくだらない妄想をしていると、もう一人のシニア男性がきっぱり、
「知り合いです」

と。あ、そうか、知り合いでいいのか。

そんなこんなで、四ツ谷駅地下の事務室から地上へ上がって、そこから救急車へ、という段取り。

メトロの車椅子を出してくださって、ご本人+駅員さん1人、救急隊3人、シニア男性+私と総勢7人でぞろぞろ移動。

救急車に乗り込む際、ふと、
『私がこのまま救急車に乗ると、病院に行って・・、で、後からオクサマが登場されて、”あなたは誰ですか?”と聞かれ、”ええと、知人です”と答え、”夜中までうちの主人と何をしていたんですか?”などと言われ、”いやあ、懇親会があって””本当ですか”・・などとややこしいことになるのではないか』
と再び妄想をしていると、

シニア男性が「ボクが病院まで一緒に行きますから」と仰ってくださって、私はメトロ職員と二人で救急車を見送ることに。ほっ。

救急車って、すぐ動き始めないのですね。

しばらく(3分程度)じっとしていて、突然、車のドアを開け、私に向かって、
「搬送先、慶応病院に決まりました。」とだけおっしゃり、去っていきました。
・・・

結果的には、大したことがなく、入院もせず、夜中にはかけつけた奥様と共に、自宅に帰れたそうです。おとといの授業にも参加されていました。

オクサマと言えば、夜中11時半過ぎに夫からTELで、「慶応病院に救急搬送」と言われたので、入院道具をそろえ、タクシーを呼んで、乗り込んだとき、

「慶応病院にお願いします」
というと、運転手さん、
「それは、お急ぎですよねっ!」と事情を察して(そりゃそうです。12時ごろ病院へ!と言う客は急いでいるはず)高速をものすごい勢いで飛ばし、「怖かった」のだそうです。

何はともあれ、全員無事でよかった。

今回、感動・感心したこと。

1.東京メトロ駅事務所のスタッフが全員、てきぱきてきぱき、そして、とても優しく穏やかに対応してくださったこと
→ 本人もシニア男性も翌日、四ツ谷駅に行って、「お世話になりました」と報告とお礼をしたそうです。
2.救急隊の粛々とした仕事ぶり
3.当事者全員が落ち着いていたこと
→ 患者本人が自分の脈状態などを冷静に伝え、シニア男性も落ち着いて対応。皆誰も慌てることなく(私の妄想を除く)、冷静に対処できました

色々なことを学んだ一夜でありました。

ご本人が「ブログに書いてよ!」と強くおっしゃったので、ここに記しました。
やはり、月並みですが、健康第一。それから、「冷静な対処」は重要ですな。

★東京メトロ四ッ谷駅職員の皆様、救急隊の皆様、本当にありがとうございました。

2010年6月10日木曜日

旧ブログ記事:見方を変えれば(2010年6月10日掲載)

あるゲームを使った演習で、上司役が部下役に、「これを持っていますか?」と質問をしました。

その際、部下は、

1.「はい、持ってます」「いいえ、持ってません」
2.「はい、持っています。これこれこういう状態のものです」「いいえ、持ってません。でも、これなら持ってます」

という返事が出来ます。

で、1の返答の場合、上司は、「なんだか、答え方が省エネだな。もっと、突っ込んだ答えはないのか」と思い、「深く読まない」「上司の思いを忖度しない」「自発的に情報提供しない」とレッテルを貼り勝ちです。

2の返答なら、「気がきくねぇ。はい、+αの情報を返してくれるのはいいね」と思うわけです。

これ、上司からの視点。

部下はどう思っているか?

確かに単純に気がきかないから、「はい」「いいえ」しか言わないのかも知れない。

でも、「この人に余計な情報、プラスαの情報を提供したくないし、会話時間はできるだけ短くしたい」と思っているから、最小限の回答をしないのかも知れない。

そのゲームが終わった後、全員で振り返りをしていたら、そういう話が出ました。

「はい」と答えるか「はい、具体的にはこれです」と答えるか、って、部下(役)が上司(役)をどう思っているかにずいぶん影響受けるよね、と。

ということは、「部下がどうだ」と評価する前に、「自分は、多くの情報を寄せてもらえるような、信頼できる上司だろうか」「話しやすい相手だろうか」と自問自答することも大切なのですね。

今日は、全員でそんな議論をしつつ、最後は、「だから、日ごろの人間関係がチームの成果に大きな影響が出ちゃうことがあるんだよねぇ」と納得!

2010年6月8日火曜日

旧ブログ記事:Twitterと読者(2010年6月8日掲載)

昨日、とある企業でOJT担当者研修を担当しました。その席に2年次社員の方が受講されていて、帰り際に「私の先輩(OJT担当者だった方)が、田中さんの研修を昨年受けていて、今でもブログ読んでます、と言ってました。」と教えてくださいました。

1年前に研修を受講してくださった方が、その時紹介した、この地味ブログに訪問してくださっているとは本当にありがたいことです。ありがとうございます!

さて、最近、Twitterを始めまして、使い方にもかなりなれました。掟みたいなことも分かってきましたし。(まだ、マナー違反なことをしているかも知れませんが)

ミニブログという言い方で紹介されることもあるこのTwitter、タイムリーに誰かと意見交換をできる点は、とても便利な感じがしています。

このブログは、仕様上、社員以外からのコメントを受け付けられない、ケイタイからアクセスできないなど制約が多いけれど、Twitterなら、Webからでもケイタイからでもいつでもどこでも読み、書きができる。

「研修でこういう意見が出ます」とつぶやくと、受講者の方だったり、あるいは、全くグローバルナレッジとはお取引のない方からだったりが、それについて感想なり考えなりを述べてくださることもあります。

それをご覧になって、他の方がまた考えを述べる、ということもできます。

受講者の皆さんや取引のあるお客様、あるいは、「グローバルナレッジって何?」「どんなことできるの?」と興味を持ってくださった方の直接のメッセージを拝見できたら、私自身も講師スキルを向上させたり、テキストの改良に役立てたりすることができるし、よりよい製品・サービスを提供できるのではないかとも思っています。

性質上、仕事のことだけでなく、プライベートなことまでつぶやくので、少々画面がうるさくなるのは難点として、よろしければ、ブログと共にTwitterもご覧いただけると幸いです。

ブログももちろん、更新し続けます。

田中のTwitter:http://twitter.com/TanakaLaJunko


*昨日は、私が連載している日経BPモバイルケイタイ朝イチメールの月曜配信分で大変盛り上がりました。エッセイを読み、「一言申したい!」という全国(大げさ?)の方から、面白いメッセージをいただきました。感謝、深謝。

2010年6月5日土曜日

旧ブログ記事:皆悩んで大きくなった(2010年6月5日掲載)

「皆悩んで大きくなった♪」とは、何かの、そして、とても古いCMソングだったと思うけれど、ホントにそうだなあ、と思う話をよく聞く。

数年前のこと。ある企業で「過去、上司や先輩に言われて落ち込んだセリフは?」なんてことを皆でわいわい出し合ってみた時、「えー」と思う例が出るわ出るわ。

よくぞそれを飲み込んで、あるいは、無視して、あるいは、受け流して、ここまで仕事を続けてきましたね、とつい思ってしまうほど。

たとえば、「キミの1年はいったいなんだったんだ」と言われた人。年度末の面談の席とか、そんな場面で。それ、全否定じゃないだろうか。

あるいは、
「この仕事(会社)、向いていないみたいだね」と言われた人。

いずれの例も上司も機嫌が悪かったのかも知れないけれど。それにしても、ちょっと言い過ぎじゃあないだろうか、とは思う。

ちょっと毛色の違うもので、新入社員研修を少しさぼっただったか、遅刻しただかした日に、先輩が、全く自分のほうを見ず、PCに向かったまま、

「明日から来なくていいから」と低音でつぶやいた、という例もあった。

この彼は、その時ちょっとムッとしたものの(自分が悪いとわかっていても)、絶対に見返してやる!と奮起し、今では、その苦言を呈してくれた先輩とも仲良く仕事をしている、と話してくれた。

この前のエントリーでも書いたけれど、叱ってくれる先輩(上司)は、いい先輩(上司)。

あまりに全否定、あまりに人格無視、というのはいただけないけれど(パワハラという言葉が出来る前だって、いただけなかったのだ)、「深く反省させ」「奮起させる」と絶妙の声をかけるのは必要なことだと思う。

ただ、コミュニケーションというのは、発信者と受信者、双方の問題があるので、「自分は奮起させるつもりで言った」けれど、後輩は、「ただ落ち込む」こともあれば、「自分の言葉は、言いすぎだった。悪かった」と反省したのに、後輩は「いやあ、有難い。これで目が覚めた」と思うこともあるから、難しい。

結局は、日ごろどういう関係を築いていたかがこういう「叱責」の場面でも影響するのだ。

それにしても、もっともっとすごい例も聴くのだけれども、本当に「皆悩んで大きくなった」んだなあ。

頑張れ、皆(わたしも)!

2010年6月3日木曜日

旧ブログ記事:「叱ってくれる先輩」はいい先輩(2010年6月3日掲載)

OJT担当者研修でこそっと質問されたのが、「去年、後輩を注意したら、会社辞めちゃったので、全員ぴりぴりしてて、最近は誰も叱らないんです。若い人は叱っちゃダメなんですかね?弱いですか?」。

うーん、どうなんでしょう?

3年ほど前、ある企業で新入社員数百人から集めたアンケート結果を見せていただいたことがあります。そこにはフリーコメントで、

「もっと叱ってほしい」
「想像以上に先輩が優しいので返って不安になる」
「ダメなときはちゃんとダメと言ってもらっていい」

と書かれているものが何枚もありました。

この「叱ってほしい」で想定している「叱る」が、私たち20年以上前に社会人になった人間が想定する「叱る」とレベル的に一致しているかどうかは不明です。

ただ、「褒める」「優しく言われる」だけでは、かえって不安になっている若手もいるらしいことはこれでわかります。

それはそうでしょう。

「いいよ」「うん、いいよ、それで」とばかり言われたら、「本当か?」「お世辞じゃないのか?」と疑問に思うでしょうし、褒められただけで「成長実感」が湧くものでもないはずです。
「これはダメ」
「これはいい」
「これは上手」
「こっちは下手」

などと、メリハリをつけたフィードバックをしてくれたほうが、自分のよい点も改善点も自覚できるような気がします。

『叱ったら辞めちゃった』という人は、たぶん、遅かれ早かれ、辞めちゃうのではないでしょうか?

もちろん、パワハラ、罵倒、人格否定はダメだけれど、「ダメなものはダメ」「ここは直すべし」「ここは改善すべし」と苦言を呈することは上司・先輩の役目だと思うのです。

「いいお兄さん、いいお姉さん」になるのは楽チンだけれど、叱ってくれた人は、きっと後で感謝されます。その時はムッとされても、「ああ、あの時、がつんと言ってくれた人ってカッコよかったなあ」と自分が叱る立場になったとき、そうスムーズに言葉が出てこないことを実感するに違いありません。


「嫌われたっていいじゃないか 先輩だもの」(みつを風)


2010年6月2日水曜日

旧ブログ記事:上司の動機づけとフォロー(2010年6月2日掲載)

昨日のこのブログ記事へのリンクをTwitterでも貼ったところ、「研修の成果は上司の事前の動機付けが大事だと思う」というコメントを頂戴しました。

そうなんですね。

こういうこと、ありませんか?

【部下の視線から】Before

●ある日、上司にこういわれる。「研修、申し込んでおいたから、来週、月曜から新宿のトレーニングセンターに行ってきて」「え?何のためですか?」「仕事に必要だから」「・・・」
●ある日、自席に戻ると、1枚の紙が置いてある。見ると、「研修受講証」。上司に尋ねる。「これ、なんですか?」「あ、研修。うちの部署から2人出さないといけないから、行ってきて」「・・・」
●ある日、「明日から研修に行ってきます。○○を学んできます」と上司にホウレンソウすると、上司「ああ、行ってらっしゃい。いいなあぁ、研修。身体休められるもんねー。それに、新宿だし、ヨド○カメラなんかあったりして、楽しそう」「・・・」

・・・

こういう状態で、部下が「動機づけ」られて学習に臨むというのは難しい。まあ、「学習意欲」が全て上司によって高まるわけでもないので、自分で自分に動機づけすればいいとも言えますが、それにしても・・・。

さて、研修から戻ってきたら、さらに。

【部下の視線から】After

●「○○研修から戻ってきました」「あ、お疲れぇ~。溜まった仕事、早く片付けてね」「・・・(それだけ?)」
●研修から戻り、自席で仕事をしていると、上司がやってきて、「2日間見かけなかったけど、どこ行ってたの?休暇だっけ?」
●「○○研修で、こういう内容を学んできたので、報告書書きました。読んでフィードバックをいただけますか?」「ああ、わかったわかった。後でね」と言いつつ、最後までなしのつぶて

事後は事後でこういう感じ。もうちょっと感心を持って、「研修内容」を次に生かす支援をして上げられればと思うのですが。

・・・

研修のBefore/Afterについては、上司の関わりが欠かせないのに、当の上司は、忙しいこともあってきちんとした動機づけもフォローもしていないケースが本当に多いのです。

「昨日までに上司から何か動機づけされた方は」と研修の冒頭で確認すると、ほとんど手が挙がりません。(ほぼ毎度のことです)

「研修の場」で学んだことを生かすも殺すもBeforeの動機づけ(受講目的の再確認、戻って来て何をどう生かしてほしいか伝える、励ます)、Afterのフォロー(話を聴いて、フィードバックするなど)次第。

私達、研修提供側も、人事・教育などの事務局担当者に「上司の方に動機付けしていただくよう、メールなどでお伝えください」などとお願いして、少しでも効果を高めるようにはしています。ただ、「現場は忙しいんで、実施されるかわかりませんね」と弱腰な場合もまだまだあります。

もちろん、上司の働きかけを待つだけでなく、部下も「明日から受講するので、私はこれを学んできます。できれば、上司として私に期待することを教えてください」と自分から聞きにいくことも大切ですね。

私達にできることは、「研修はBefore/After」もセットなのだーということを、もっと訴えていくことですね。具体的にそれを伝える資料を作成するなど、自分ができることをしなければ。

2010年6月1日火曜日

旧ブログ記事:「研修慣れ」は受講者と講師双方の問題(2010年6月1日掲載)

一社向けの研修を実施する際は、事前に人事・研修担当者と講師が顔合わせを兼ねた打ち合わせをするケースが多々あります。

「何か留意点はありますか?」

とお尋ねすると、時々、

「当社の社員は、”研修慣れ”をしていないので、最初はしーんとしているかも知れません。ディスカッションでも活発な意見が出るまでに時間がかかります。反応も薄いので、聞いているのか?と思う講師もいらっしゃるようです。真面目に取り組んでいるのですが、外面に現れないだけですので、火がつくまでじっくり付き合ってください」

と言われることがあります。

考えてみたら、これは当然のこと。

「研修慣れ」していない=「研修に参加する回数が少ない」という方は、「研修」という場で、「どのように振舞えばよいのか」という経験値がありません。

だから、講師に問い掛けられても戸惑うし、どう反応したらいいのかもわからないし、グループワークで1人だけ張り切ってもなんだし、発言しすぎてKYと言われても困るし、とぐるぐる考えてしまうのは当たり前です。

特に、日本人は奥ゆかしいので、周囲をよく観察して、自分の「その場」での立ち位置、振舞い方を決めていきます。

講師側は、問い掛けたら、どんどん反応してほしい、疑問があれば、事後のアンケートにコッソリ書くのではなく、研修のその場で発言し、解決してほしい、と思うものですが、「そうしてよい」と思わせ、安心して「そうしよう」と感じられるような場作りが出来ていなければ、積極的(に見えるよう)な態度で研修に臨むのは怖いはず。

一方で、講師が講義をしている最中に、「あ、ちょっといいですか?そこ、僕は反対の意見を持っているんですが」とか「この部分については、他の参加者の考えや経験を聞いてみたいんですけど、いいですか?」などと発言する受講者がいるとします。

このとき、「え?話している最中なのに、割り込まないで欲しいなあ」と思う講師もいます。この講師は、別の意味で「研修慣れ」していないのです。

講義中、受講者は静かに聴いているもので、「質問はありますか?」と尋ねた時間だけ質問はしてほしい、と思っていると、途中で流れを一旦止めるような発言があった時、対応に困ってしまうわけです。

アメリカで研修に参加すると、もう誰も黙ってはいないし、講師にどんどん反論するし、受講者同士で議論もするし、にぎやかで、講義を黙ってずっと「拝聴している」なんてことはありません。こういう空気を日本の研修でも実現したいと思ってずっとこの仕事を続けていますが、この「丁々発止」を実現するには、受講者の「研修慣れ」だけではなく、講師の「研修慣れ」も必要だと思い至ります。

講師も鍛錬の日々です。

研修は、「講師の話を聞く場」ではなく、受講者が「講師の話も聴きつつ、自分で考え、自分で気づき、次に何を生かしていくかを決める場」です。

自習するより、学ぶ場に身を置いて、他者(講師や他の受講者)と関わり合いながら、自分の知識やスキル、考え方を整理していくことにこそ意味があります。

そういう風に場を活用できるよう、受講者が安心できる、和める雰囲気を作るのは、私たち講師の責任です。