この「ストレッチ目標」として与える仕事は、桃ラー(※)風に表現すれば、「できそうで できない 少しできる仕事」とも言えます。 (※桃ラー:桃屋のラー油「辛そうで辛くない少し辛いラー油。現在、ヒット中で品薄状態が続く商品)
こういう「できそうで できない 少しできる仕事」で人を育てようという時、まず思いつくのは、その人の上司や先輩の存在です。
●上司が、部下にできることばかりさせないで、部下がちょうどよいくらいにストレッチできる仕事を与える必要がある
●先輩は、そういう仕事を任された後輩をたとえば、OJTの場面で支えてやる存在であるべし
●あるいは、先輩は、「そろそろこの後輩には、もうちょっとストレッチなことをさせてもいいかな」と思ったら、上司に「一段高い仕事を任せてみては?」と提案する
●上司や先輩は「ストレッチ」させた時に起こりうるリスクに備える(失敗をどうリカバーするか、とか、うまくいこうがいくまいが、どう本人にフィードバックするか、とか)
・・・
まあ、他にもあるでしょうが、とにかく、「ストレッチ目標」といったら、すぐ上司や先輩の存在が大切だよね、という話になります。
ただ、このとき、もう一方で、忘れてはならないのが、その「ストレッチ」な仕事の受け手の存在です。
●ある人が、今まで手がけたことのない、少しハードルの高い案件を任された。お客さんからしたら、「できればなれたエンジニア(営業でも講師でもコンサルタントでもなんでもよい)にお願いしたいけどなあ」と思う。
●でも、そこでお客さん側が、「ここはひとつ、ぐっと我慢して、この人の成長に付き合ってやろう」と腹をくくる、というか、どっしり構える
なんてことができたら、その人は育つチャンスを得られるわけですね。
ところが、そんな理想的なことにはなかなかならないのが現実です。
たとえば、こんな話を聞きます。
●プロジェクトで、顧客との会議に自社の新人を同席させたい、と顧客に打診したら、「お宅の新人の教育をうちの会社でやらないでくれ」と断られた
●「端っこに座っているだけでいいです。うちの手弁当で同席させるだけでもダメですか?」と食い下がると、「そうはいうけど、椅子に座るでしょ。空気吸うでしょ」くらいの勢いで拒絶された
・・・
上司や先輩がいくら「育てよう、ストレッチさせよう」と覚悟を決めても、それを受け入れてくれる存在がなければ、若手は「成長チャンス」を得ることができないのですね。
そういえば、以前、身内が入院・手術を受けて数日経って見舞いに行った時のこと、
「ねぇ、手術の時、途中で若いセンセに替わっているんじゃないかしら?”ここだけやってみる?”なんて・・」
「そうだろうねぇ。チーム体制になっているんだから、あの若センセのほうが途中でメス握ってたかもね」
「そうよね。そうしないと、お医者も育たないもんね。私はそれで構わないわ」
こういう患者がいれば、医師はストレッチの体験ができるんだなあ、と思ったものでした。
翻ってわが身のこと。
あと3週でオシマイとなる「日経BP朝イチメール」。
昨夜のTwitter上で数人の読者さんとやり取りをしたところ、
「田中さんの文章はだんだん角が取れて読みやすくなりました」
といったコメントを頂戴しました。
私は、プロの作家・プロのエッセイストではなく、あれやこれや試行錯誤し、編集者に叱咤激励され、途中、泣きそうになりながらも書いてきましたが、最近、ようやく、われながらまあまあ上手にまとめられるようになったと感じられるようになりました。
今思うと、最初のころのエッセイは、「チカラが入ってしまって」がちがちに緊張しているのがわかるような文面です。今はずいぶんと自然体になってきた気がしています。
読者の皆さんもそれには気づいていらっしゃって、「へたくそだけど、まあ面白いから許す」とか「これから伸びるのを待ってやろう」と長い目で、あるいは、大目に見てくださったからこそ、1年間続けてこられたのだと改めて気づかされたのでした。
人は1人で成長するわけではありません。
「俺は誰からも育ててもらっていない」
「私は自分の道を自分で切り開き自分の才覚でここまで来た」
と思ったとしても、
どこかに、私たちがしている仕事の相手がいて、その相手が、ときに黙って受容し、ときに我慢し、失敗や不調法を許し、ときに叱咤し、励ましてくれるからこそ、成長のチャンスが得られるのです。
「ストレッチな仕事」を支えるのは、上司や先輩だけではなく、
仕事の受け手が必ずそこにいて、そういう人たちが「ストレッチ」を受け入れてくれるからこそ、成長できるという面があることを忘れてはいけないのですねぇ。
自分が「サービスの受け手」になった時も同じことが言えて、「今は新人クンがOJTで頑張っている時期だ。多少の無作法は許そう」と思う度量が必要なんだと思うのです。
・・・・・・
あなたの成長は、他の誰かが支えてくれている。
あなたは、誰かの成長を支える存在になればいい。
そうやって、人は互いに成長支援をし合うものなのでしょう。
★朝イチメール、今日6/17(木)中に登録すれば、月曜日から最終回までの残り3回分全てを着信できます。よろしければ、今晩中にご登録くださいませ。無料です。
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たとえば、こんな話を聞きます。
●プロジェクトで、顧客との会議に自社の新人を同席させたい、と顧客に打診したら、「お宅の新人の教育をうちの会社でやらないでくれ」と断られた
●「端っこに座っているだけでいいです。うちの手弁当で同席させるだけでもダメですか?」と食い下がると、「そうはいうけど、椅子に座るでしょ。空気吸うでしょ」くらいの勢いで拒絶された
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上司や先輩がいくら「育てよう、ストレッチさせよう」と覚悟を決めても、それを受け入れてくれる存在がなければ、若手は「成長チャンス」を得ることができないのですね。
そういえば、以前、身内が入院・手術を受けて数日経って見舞いに行った時のこと、
「ねぇ、手術の時、途中で若いセンセに替わっているんじゃないかしら?”ここだけやってみる?”なんて・・」
「そうだろうねぇ。チーム体制になっているんだから、あの若センセのほうが途中でメス握ってたかもね」
「そうよね。そうしないと、お医者も育たないもんね。私はそれで構わないわ」
こういう患者がいれば、医師はストレッチの体験ができるんだなあ、と思ったものでした。
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読者の皆さんもそれには気づいていらっしゃって、「へたくそだけど、まあ面白いから許す」とか「これから伸びるのを待ってやろう」と長い目で、あるいは、大目に見てくださったからこそ、1年間続けてこられたのだと改めて気づかされたのでした。
人は1人で成長するわけではありません。
「俺は誰からも育ててもらっていない」
「私は自分の道を自分で切り開き自分の才覚でここまで来た」
と思ったとしても、
どこかに、私たちがしている仕事の相手がいて、その相手が、ときに黙って受容し、ときに我慢し、失敗や不調法を許し、ときに叱咤し、励ましてくれるからこそ、成長のチャンスが得られるのです。
「ストレッチな仕事」を支えるのは、上司や先輩だけではなく、
仕事の受け手が必ずそこにいて、そういう人たちが「ストレッチ」を受け入れてくれるからこそ、成長できるという面があることを忘れてはいけないのですねぇ。
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あなたは、誰かの成長を支える存在になればいい。
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