2010年11月30日火曜日

旧ブログ記事:私が早起きになったいきさつ(2010年11月30日掲載)

「一体何時に起きるの?早朝のメールが来たけど」「ブログの更新時間が・・」と、友人・知人には早起きに驚かれるのですが、とはいえ、せいぜい5時です。

一応目覚ましは6時にセットしていますが、なぜか5時ごろ自然に目が覚める。

年を取ったからではなく、ずっと前からこうなのです

はて、私は、いかに「朝型」になったか?をつらつら思い出してみるに、新入社員の時からだ、と思い至りました。

実家からDECに通ってました。

実家は町田市の成瀬というところにあり、DECは、当時、池袋のサンシャイン60でした。
通勤ルートは、(分かる人にしか分からない説明をしますが)

成瀬⇒長津田⇒永田町⇒東池袋。(小田急をつかわなかったのは、超混んでいるから)
*長津田⇒永田町は、田園都市線+新玉川線(今の半蔵門線)だったような・・・。で、今より時間がかかったのです。

立ったままで行けば1時間半もかからないのですが、なんせ長距離なので、長津田で15分くらい待って始発に乗ることにしてました。

朝8:45始業なので、8:30前には到着したい。逆算すると6:45ごろのバスに乗れば遅くとも8:20には到着できる。(なんせ、通勤距離が長いと、不通になった時のインパクトが大きいので、少しずつ前倒しで動くわけです。)

6:45のバスに乗るために6:40には家を出る。5:40ごろ起きて、朝ごはん食べて、新聞読んで、着替えて・・で、出かけてました。(母もまだ起きてきていませんでした。)

ただ、これ1時間しかないので、結構あわただしいのです。

それで、少しずつ早く起きるようになり、最後は5時でFIXしました。

家を出るまで1時間45分あると今度はかなり余裕です。

自分の朝ごはんを用意して、食べるだけではなく、後から起きてくる両親・妹のために、お皿並べておいたり、家族中の洗濯をし、外に干したり、1Fの雨戸を全部そーっと開けたり、かなりのことができました。(家族のためにも結構貢献していました!)

慣れてきたら、自分のお弁当も作って・・・。

そうやって、朝早くおきて、基本的なことは全部自分で行う、という生活を26歳で結婚するまでの3年半続けました。

・・・・

会社近くに住んでいた先輩は、いつも8:45のチャイムと同時に汗ふきつつやってきました。
だからといって、別に自分も「ぎりぎり」でいいや、とは思いませんでした。
私は私のペースで早めに来ようと新人なりに考えた記憶があります。

さて、それから25年。基本的に早起きなのは変わりません。

今、私は「家を出る2時間前起床(最低限)」を原則にしています。

よく若手社員の話を聴いていると、「朝起きられない」「朝ごはん抜き」・・・「だって、朝は15分で出てくるもん」なんてことを言ってますけれど、それでさらに聴けば、「夜は2時に寝ている」「3時かなあ」なんて。

「12時までに寝る」、「朝ごはんは食べる」、はたまた、自立のためにもその「朝ごはんは自分で作る」といったことをいくつか決めてしまい、そこから朝の動き、夜の動き(生活パタン)を考えてみるのもどうかなー、などと思うのです。(いや、もちろん、夜勤とかシフト勤務態勢の場合は別ですよ。)

2010年11月29日月曜日

旧ブログ記事:「原点回帰」の意味(2010年11月29日掲載)

昨日、クラス会は原点回帰、と書きつつ思い出したことがあったので、今日も「原点回帰」で。

ある企業で、新入社員研修のある夜、「先輩との懇談会」を企画したことがありました。

合宿研修の先に「2年目」の先輩が10人くらい駆けつけてくださり、新入社員(入社してまだ3-4日のほやほや新入社員!)の質問に様々に答えていく、というイベントです。

新入社員7-8人に1-2人の2年次社員がついて、15分くらいずつで、テーブルをどんどん移っていく方法を取りました。

新入社員は、2年目の先輩に様々な質問を投げかけます。

「先輩は、どんな仕事をしていますか?」
「先輩は、この1年でどんな資格をとりましたか?」
「土日はどんな風に過ごしていますか?」
「新人時代、一番大変だったことは何ですか?」
「上司や先輩は優しいですか?怖いですか?」
「社外に出ることはありますか?」

など、もういろいろな角度からの問いかけに、2年次社員は答えていきます。

中には、

「血尿が出るほど仕事する、と聞いたことがありますが、血尿は出たことありますか?」

という質問もありました。(マジメに、です)

・・・・

回答している2年次社員は、それなりに堂々と自分の体験や考えを述べていきます。新入社員からすれば、1年上というだけで、「雲の上の存在」。

憧れのまなざしで見つめながら、真剣にノートを取ってました。

実は、回答していた2年次社員。1年前に新入社員研修で接した方たちでした。

ですから、私は、新入社員のソボクな疑問や熱心なQ&Aがスゴイなあ、と思うだけではなく、「ああ、1年経って、こんなに立派になったんだ」というほうに心を奪われました。

職場に戻れば、まだまだ「わからないこと」「できないこと」も多いはずの2年次社員。(だって、2年次になったのがほんの数日前なのですから)

不安もあれば、自信が持てない領域もたくさんあることでしょう。

だけれども、新入社員を前にして、仕事に関する質問を受け、それに答えるときの堂々っぷり、といったら。

1年前を思い出し、人事の方と共に、うるうるしてしまいました。
ああ、皆この1年間、ちゃんと頑張ってきたんだなぁ・・。と。

このイベント、新入社員に「1年上」の先輩の話を聞かせ、働くイメージ、1年後の自分のイメージを持ってもらおうと意図されているものではありますが、嬉しそうに胸を張って回答する2年次社員を見ているうちに、これは、きっと彼ら・彼女らの「原点回帰」に役立っているのではないか、と思えてきました。

自分の仕事、自分がこの1年間やってきたこと、苦労したこと、楽しかったこと、喜び、悲しみ。はたまた、血尿が出たかどうか、なんてことを相手に語ることで、「自分がそもそもなぜここに入って、何をしたくてここにい続けている」のかも思い出せたでしょうし、「今何をして、何を考え、これからどうしたいと思っているのか」も改めて整理できたのではないか、と。

「踊る大捜査線」の中で、青島刑事があのコートを捨ててしまい、しばらくしてから拾い上げるシーンがあります。このとき彼は、「コートを買ったときのこと」を思い出します。「警察官になろうと決意した時」の気持ちを。

これは、仕事の「原点回帰」を象徴するシーンだそうです。

後輩に自分の仕事を語る、というのは、青島刑事のコートを拾い上げる場面に重なるなあ、とあらたえて思いました。

自分がなぜここにいるのか、何をしたくてここにいるのか、をふと忘れそうになったら。
モチベーションが低迷しているかも、と思ったら。

誰か他者に「自分の仕事」を語ってみるのもいいかも知れません。

「原点回帰」・・・から思い出した出来事を書いてみました。

2010年11月28日日曜日

旧ブログ記事:同窓会が与えてくれるもの(2010年11月28日掲載)

昨日(11/27土曜日)、高校の卒業30周年記念クラス会がありました。

といっても、クラス会自体は30年間ほぼ毎年開催しているので、めったに参加しない同窓生以外は、「あ、ひさしぶり~」「元気だったぁ」といった程度の感慨ですが。

都立国立(くにたち)高校出身で、朝イチメールにも3回くらい、その自体のアホ高校生のことをネタにしましたけれど、その時のメンツが集まったわけです。(練りチョークの人など。コーヒーを販売していた彼は来ませんでした。)

折角なので、国立で開催しよう!ということになり、私はクラス会に先立ち、一人ぶらぶらと国立駅から大学通りをまっすぐ進み、国立高校正門へ行ってみました。

フツウ、大人になると、子供のころ歩いた距離を「あれ?こんなに近かったかしら?」と思うものなのに、昨日は、「あれ?駅からこんなに遠かったっけ?」と驚いてしまいました。

これだけの距離を毎日往復していたんだー。びっくりです。

それはさておき。クラス会。45人クラスの内、なんと22人が集まりました。この集客力、スゴイですよね。たぶん。

皆いい中年になって、小さな書類なんて、眼鏡はずさないと読めない、とか、腹部近辺がちょっと、とか、そんな感じでしたが、一気に30年を遡って、その当時の名前で呼び合い、思い出を語ったり、近況を報告したり。

・・・・

本当に仲のよいクラスだったのです。高校生にありがちな色恋沙汰はほとんどなくて、単に、中性的に男女とも仲良くて。だから、今でもほぼ毎年クラス会をしているのでしょう。

6時間もおしゃべりしていて、帰り道では、「元気」やら「勇気」やら「やる気」やら、いろんな「気」が湧いてきました。

15歳から18歳まで3年間を共に過ごした仲間です。(クラス替えがなかった)

一生懸命生きていた青春時代の、無駄にエネルギーを放出していた高校生時代のあれこれを思い出し、あそこから30年経って、今の自分があるんだなあ、としみじみしました。

大学教授も院長も社長も取締役もいたけれど、皆でアホな話をし、社会的な立場だの地位なんか無関係に(当たり前です)、フラットに接し、それぞれが「素の自分」を取り戻した時間だったようにも思えます。

クラス会がもたらすもの。

それは、郷愁だけではなく、今、これからを生きていくための「原点回帰」なんぢゃないか、と思います。

もう二度と戻ることのないあの時代ではあるけれど、自分の身体の芯に高校時代のあれこれがいっぱい詰っているのです。

「あなたの原材料は?」と問われたら、高校時代の3年間は確実に含まれています。

みんな、ホントにありがとう。これからも元気でしっかりと生きていこうね。

============

「さて、来年のクラス会の幹事は・・○○君にお願いしたい。もう一人、誰かいない?」
「はーい」

と酔った勢いで思いっきり手を挙げてしまいました。

卒後31周年クラス会の幹事、ガンバリマスです。

2010年11月26日金曜日

旧ブログ記事:「朝イチ読者さんと歩く下町夜の遠足と忘年会」12/3(金)18:30~(2010年11月26日掲載)

既にTwitterで飽きるほどツイートしているのですが、もしかすると、ブログでしかご覧になっていない方もおいでかと思い、お知らせします。

来週、「朝イチメール」読者さんと歩く東京下町遠足と忘年会を開催します。カトラーさんと田中淳子、ウワサのMプロデューサーも参加です。

開催の内容は以下の通りです。

【朝イチ読者さんと歩く東京下町(向島・曳舟)大人の夜の遠足+忘年会】

●2010年12月3日(金)
1次会: 18:30~20:45 向島
2次会: 21:00~エンドレス? 曳舟
(いずれも、東京の東の上の方です(笑))

詳細は、Twitterでお伝えしています。
現時点での参加表明は、15人です!(+上記3人が加わるので18人)

遠くは、岡山、四日市、岡崎からの参戦が予定されています。

●1次会だけ
●1次会の途中から
●1次会と2次会と
●2次会だけ

の4パタンがあります。どこからでも参加可能です。

ぎりぎりまで募集します。お手数ですが、Twitterから田中に呼びかけてくださいませ。
詳細は別途お伝えします。

旧ブログ記事:「オペ室ナース」の存在(2010年11月26日掲載)

先日の産業カウンセラー資格更新講習で、「オペ室ナース」の独白といった作文が紹介されました。

・・・・・

「全身麻酔」で手術を受けている人に、オペ室ナースの存在は記憶に残らない。でも、緊急手術のために呼び出され、デートをキャンセルしたことで彼と気まずくなることもあれば、すごくたくさんの勉強をすることもある。手術からしばらく経って、元気に歩く患者の姿を見ると、こちらは「あ、元気になったのだな」とはお思うけれど、相手は私のことを知らない。

・・・・・・

そうかあ、病棟ナースは、直接患者から感謝されることもあるけれど、オペ室ナースは黒子的存在だなあ。モチベーションを保つ、やりがいを感じるって、大変だなあ、思いました。

で、そんなことをTwitterでつぶやいたら、実は、逆のパタンもある、という指摘を。

「病棟ナースは、すごく親身になってしまう。親身になりすぎてしまうため、心が苦しくなることもある。オペ室ナースに異動して、それでやっと心の平穏を保て、長く勤めることができた」と。

なるほど。

仕事のやりがい、心身の健康、モチベーションも持ち方。

それぞれの見方があるのですね。

2010年11月25日木曜日

旧ブログ記事:「着ぐるみ」をたくさん持つってのもいいと思う(2010年11月25日掲載)

もう20年近く同じことをあちこちで書き、しゃべり、しているので、「あ、その話はもう聴いたよ」と言う方もいらっしゃるかも知れませんが、今日のテーマは「着ぐるみ」です。

仕事していると、なんだかもうとてつもなくツライ思いとか理不尽な体験とかココロが折れそうになる出来事とか、あれやこれやと押し寄せてくると思います。

それに対する「鈍感力」を身につける、というのもひとつの手ですが、あまりに鈍感すぎて、反省すべき部分もスルーするってのもよくない。

そこで、取り出しましたのは、「着ぐるみ」。

たとえば、私の場合、教室の中では「講師」という「着ぐるみ」を着る。

仮に、受講者に厳しいことを言われても、それは「着ぐるみを着た講師」としての私が引き受ける。
反省すべきは反省し、対応すべきは対応し、でも、それ以上でもそれ以下でもない。
オフィスに戻ったら、「講師の着ぐるみ」を脱ぐ。
そうしたら、少し気分が楽になれる。

この仕事を始めて25年。もう何万人もの受講者と出会いました。楽しいこともツライことも切ないことも嬉しいことも、たくさんありました。これからもまだまだあることでしょう。

多くの後輩が数年でこの現場を立ち去る場面も見てきました。

立ち去る理由は様々でしたが、うまく「着ぐるみ」を着られなかった後輩も多々いました。

教室でとても厳しいことを言われる。たとえば、「あなたの言っていることは間違っている!」などと大声で指摘されることもある。あるいは、「現場のこと、ぜんぜんわかっていませんね、今日の講師は」とアンケートに書かれることもある。

それを全身全霊で受け止めて、それも、生の、素の自分として受け止めて、金曜の夜になっても、土曜になっても、日曜になっても忘れられない。

反省することは必要だけれど、いつまでも悲しさや、場合によっては恐怖の気持ちが消えない。それだけではなく、自信を失っていく。

こんな私が、こんなボクが講師なんてしていていいのか、と思ってしまう。
反省が前向きに活用されるのであればいいのだけれど、ただただ疲弊していく。

そして、ある日、「向いていないみたいなので、やはり・・」とか「切ないので、ここでは・・」といってこの場を去る。

ああ、彼、彼女が「着ぐるみ」の術を知っていたら、とこちらもとても切ない思いを味わうのです。

講師としての「着ぐるみ」だけではありません。

「上司としての着ぐるみ」「先輩としての着ぐるみ」「学生としての着ぐるみ」・・・その場その場でいろいろな着ぐるみがあるはず。

それをその時々で使い分けていくことができたら、もっと楽に生きていけるような気がします。

・・・こんな話を以前、講習で漏らしたところ、

「え?じゃあ、田中さんのこの2日間は、全部演技だったんですか?」と真顔で問われたことがありますが、「演技」というのとは違うのです。

演技ではなく、「着ぐるみ」。「役割」と身にまとうような。

楽しいことは全身全霊で受け止めてもいいけれど、ツライことは全身全霊で受け止めるのではなくて、その時の「着ぐるみ」に吸収させてしまう。

・・・それが長く仕事を続けるコツかも知れません。

新入社員も入社して8ヶ月。まだまだツライことが多いと思いますが、「新入社員の着ぐるみ」「SEの着ぐるみ」とその時々で使い分け、上手に乗り越えていって欲しいなぁ、と思います。

仕事って、嫌なこととかツライこととか、もう、やってらんない!と思うことも多々あるかも知れないけれど、「禍福はあざなえる縄のごとし」とも言うように、案外、楽しいこと、はっぴーなこともまたたくさんあるもんですよ。

===========

誰も信じてくれませんが、極端な人見知りです。というか、かなり内向的です。ついでに言えば、「引きこもり体質」です。(土日誰にも会わなくて、ぜんぜん平気!)

じゃあ、どうして講師をしているのか?といわれると、それはちゃんと出来ます。「講師」という着ぐるみを着たらスイッチが入るからです。

仕事上での会食もぜんぜん問題なくできます。

が、ことプライベートで食事とか対面・・というようなケースは、本当にダメです。緊張してしまい、自分の振る舞い方がすぐに見出せない。

だいたいが挙動不審になります。そういう場面での「着ぐるみ」をまた考える必要があるかも知れません(笑)。

2010年11月23日火曜日

旧ブログ記事:「私にとっての○○」を語る・綴る(2010年11月23日掲載)

先日の産業カウンセラー資格更新講習(11/21(日))の話の続きです。

午前の部の講師、千葉商科大学 上嶋洋一 氏の話の最後は、こんな内容でした。

「私にとってのカウンセリング」
「私にとっての看護」
「私にとっての教職」

といったことを、自分の言葉で丁寧に語ってみる、文章に書いてみる。

「カウンセリングとは、○○さんによると、こういうことで」とか「本には、こんな風に書いてあるけど」ではなく、「私の体験から、今の”自分”が考える自分の職業をじっくり考え丁寧に語る・書く」

それこそが、「経験から学ぶこと」になるのではないか。今の自分が考える・・という部分も重要な気がします。

・・・・・

上嶋氏は、授業で

「私にとってのカウンセリング(など)」を学生に書かせて、以前は、それを自分だけが読んでいたそうです。

しかし、教師が読むだけではもったいない、経験の共有をしなくては、と考え、「書いた」ら「4人で見せ合い、コメントし合う」というスタイルに変えたとか。

すると、そこには、自分とは違うものの見方、体験があるし、他者からの質問や感想を聞けば、また、自分の経験に意味づけをしなおしたり、考えの幅を広げたりすることもできると言うのです。

なるほど、これは、とてもいい方法ですね。

自分の職業を丁寧に振り返る、という作業を私達は日ごろちゃんとはやっていないと思うのです。

もちろん、「研修の講師というのは・・・」とある程度、まとまった言葉で話せるけれど、そういう職種説明のレベルではなく、自分は何のためにその職に就いているのか、その職から何を学び、何を得ているのか、何を持って他者に貢献しているのか、自分でなければダメな部分は何か、自分ならではの要素ってあるのか。そんなことをじっくり内省して、文章や言葉にする、というのは、かなり時間のかかることだからです。日々の業務に忙殺されてしまい、立ち止まって考える、ってことをあまりしていないような気がします。

入社の応募者(学生やキャリア採用候補者)に、そういう質問をするのに、すでにその職種についている側が案外、同じテーマをじっくり考えてみたことはなかったりする、というケースもあるやもしれず。

「私にとっての○○」の○○部分は、それぞれが従事している職種を入れてみればよいのですが、勤労感謝の日でもある今日、「私の仕事」をちょっとマジメに考えてみようかなと思っております。

2010年11月22日月曜日

旧ブログ記事:産業カウンセラー資格更新講習(AMの部)から(2010年11月22日掲載)

昨日(2010年11月20日)に参加した「産業カウンセラー資格更新講習」の内、午前の部のメモから、「ふむ」とうなったり、納得したりした部分をまとめました。

といっても、Twitterでつぶやいたものを集約したものなので、以下のリンクを押していただくと、読めます。

【産業カウンセラー資格更新講習午前の部をトゥギャリました!】
http://togetter.com/li/71363

もう、どこかで「涙腺」が緩み始めたら、何を聞いても涙がこぼれ落ち、最後は流れるままに涙、涙。

こうやってまとめてみると、どこで「号泣スイッチ」がオンされたのか、よくわからないのですが、まあ、あれやこれやと自分の体験を思い起こしてしまったためかと思われます。

行く前は、「えー、何百人も集めて、ビデオ上映の講習?だったら、ネット配信してくれたらいいのに」と思っていたのですが、案外臨場感があったのに驚きました。まるでそこに生身の講師がいるように。

撮影の仕方や音響によって随分、変わるのだなあ、ということも実感した1日でした。

なお、午後の部は、「来談者中心療法」についての解説で、非常にアカデミックな内容でした。

2010年11月21日日曜日

旧ブログ記事:「薬」は化学物質なだけではなくて・・・(2010年11月21日掲載)

本日11月20日(日)は、「産業カウンセラー」の資格更新講習がありました。全国数十箇所で同時に開催されています。

6時間の講習は全部事前に収録したビデオによる講義でしたが、全然違和感を感じない、フシギな感覚を与えるものでした。なぜか、そこに講師がいるような・・。

ま、それはおいといて。

沢山印象に残ったことがありますが、一つだけ紹介します。

「薬を飲むということは、化学物質を体内に取り込むというだけではなく、”信頼”をも身体に入れることなのではないか」という言葉です。

入院患者が、医師から処方された薬を捨ててしまうことがある。これは、もしかすると、薬がキライだからという理由からだけではなく、処方した医師や色々看護してくれる看護師に対する不信感から来る行為なのかも知れない、と。

私達が薬を飲むというのは、その薬を処方してくれた医師、サポートしてくれている看護師、その他医療従事者や物理的な環境を信頼しているからこそ、なのではないだろうか、と。

だから、医師は、「薬、出しておいたから」ではなく、「この薬は何のためのもので、どういう風に作用するのか、副作用として考えられることは何か」といったことを、患者にわかる言葉で説明する必要があるのですね。

この話は、何も医師など医療従事者に限った話ではなく、どの仕事でも同じなのだと思います。

私が提供するモノやサービスを相手が受け取ってくれるということは、そのモノやサービスそのものだけではなく、信頼をも受け取ってくださる、ということではないかと。

「信頼」。

とても重い言葉だと改めて思った日曜日です。

2010年11月19日金曜日

旧ブログ記事:新人時代の切なさを覚えていますか?(2010年11月19日掲載)

新入社員の時、「新人研修」の成績が、どん底だった私は、本当に自信がなくて、毎日、切なく、胸が締め付けられるような思いを抱えて会社に通っていました。

DEC時代に配属されたのは「教育」部門でした。教育部の新入社員は、なんとR&D配属予定の精鋭の、バリバリのエンジニア候補と共に2ヶ月強の研修を受けたのです。

先輩達もバリバリの精鋭で、バリバリ精鋭がバリバリエンジニア予備軍のR&D新人にレベルを合わせるわけですから、私のように、会社に入って初めて「コンピュータのコ」に触れたような人間が太刀打ちできるわけがありません。

不思議と「行きたくない」「もう辞めたい」とは思いませんでしたが、毎日、休みなく続く研修、どんどん難しくなるカリキュラム。これなら、ロシア語(習ったことがありません)の授業のほうがまだ楽かも、というほどに「ちんぷんかんぷん」でした。

先輩には、皆の前で1回か2回か「バカ!」と言われました。
別の先輩には、「田中さん、配属先がないけど、どうするつもりですか?」と詰め寄られました。

その都度、号泣し(涙腺が弱いもので)、涙を乾かして、また教室に戻り・・・。

ああ、25年経って思い出しても、その切なさは胸に来るものがあります。

それでも、様々な”訓練”の結果、インストラクタとしてデビューしました。初めて担当したのは、FORTRAN入門」という5日間の研修です。入社して半年、9月のデビューです。受講者の方は当然、私より年上で、5人くらいいらっしゃったような記憶があります。

新卒で最初の職種が「講師」、しかも、お客様からお金を頂戴する「講師」というのは、ずいぶん思い切った方法ですし、よく受講者の方も付き合ってくださったと思います。

インストラクタとして仕事をし始めた時、心に誓ったのは、「これだけ成績がどん底だった私が、人に何かを教える仕事に就くのだ。新人の時の”わからなさ”、”何がわからないかもわからない切なさ”だけは、絶対に忘れずにいよう」ということでした。

よく「新人時代のことは忘れた」という言葉を耳にしたりしますが、実は、案外、皆さん、覚えているのではないかと思ってます。

私は、今でも手に取るようにあの時の気持ちを思い出せます。

切なくて切なくて、情けなくて、この状況から抜け出せる日が来るのだろうか、と胸が苦しかった日々のことを。

多くの新入社員が今でも、そんな気持ちを抱えているかも知れません。

25年経ってひとつだけ言えるとしたら、「続けていたら、何かがわかる時がくる」ということです。

いつまでの新人時代と同じようなレベルで切ないはずはないから。

だから、切ない時は、その思いに押しつぶされることなく、おなかに力を入れて、ぐっとこらえ、それでも前を向いて歩いてほしいと願うばかりです。

2010年11月18日木曜日

旧ブログ記事:「性格だからしょーがないのかなあ」というつぶやきに対して・・・ (2010年11月18日掲載)

先日、マネージャさん向けの「コーチング」研修を担当しました。一社向けです。

演習の振り返り時に、こんな声が耳に入ってきました。

「オレ、自分の話したいことをいつもしゃべっていたなあ・・・。聞くってあまりしてなかったなあ」
「傾聴しなきゃ、と思うけど、ついつい、結論を急いじゃうんだよなあ」

・・・・

結論は、
「やっぱり、性格だからしょうがないよなあ」
「性格を変えないとダメかなあ」
でした。

そこまでは介入せずに聴いていたのですが、あ、やはり、ひとこと添えよう、と思い、近づいていって、コメントを。

「こういうの、基本的にスキルですよ。そりゃ、性格も影響はするでしょうけど、スキルとして”使う”ことができるものです。ただし、”その気”になれば、ですけど」と言ったところ、

「あ、そういう風に聞くとちょっと気が楽になる」とおっしゃった男性。

「だいたい30年、40年と生きてきて、”性格変えろ”って言われてもいやではないですか?私はいやだし、できない、と思ってしまう。だけど、”スキル”だから使ってみたら、と言われたら、ちょっとやってみようかな、とは思える。できるかどうかは別として。」

・・・

「うんうん」と皆さんがうなずいた・・のですが、すかさず別の男性が「でも、使う、っていっても、すぐ忘れちゃうんです」とおっしゃいました。

「スポーツを考えてみてください。今日習って、すぐその技術って使えますか?テニスでもスキーでもゴルフでもいいけれど。繰り返しているうちに少しずつ自分のものになりますよね?同じことですよ」

「あ、そうかあ・・・」

・・・・

「で、ですね。コミュニケーション関連の練習って、素振りもなかなかできないので、部下を”練習台”にしちゃう、部下に練習台になってもらう、ってのが手っ取り早いと思います。恥ずかしいと思うなら、”練習台になって!”とカミングアウトしてしまえばいいんですよ。」
「うーん、それは言いたくないなあ」
「あ、それ、ボクは言える、そうしよう」

など口々に反応がありました。

この件は、このブログでも「わくわくヒューマン・スキル」の第3回「慣れない内は”筋肉痛”」でも取り上げてきましたが、コミュニケーションに関することは、たいがい「スキル」です。

性格だの資質だのを云々していたら、つらくなるし、先に進めなくなる。

そりゃ、社交的な人はいます。誰にでも話しかけちゃうし、誰とでもすぐ打ち解けるタイプ。

反対に、内向的な人もいます。人見知りで、すぐには打ち解けないタイプ。(ちなみに、私は、後者です。信じてもらえないと思いますが、超内弁慶の人見知りです。)

ただ、仕事で「誰かと何かをする」ことになったら、「スキル」を仕事の道具の一つとして使えばいいと思うのです。

どうすればいいのか?といえば、ただひとつ。

「使おう、という気になる」だけです。その気になる、使ってみる、それだけ、です。

使ってもいないのに、知らず知らずの内に上達するスキルってないから。

大仰に構えず、まずは、何か1つを試してみたらいいと思っています。
たとえば、「呼ばれたら、”はい”と返事をする」とか、「振り返る時に眉間のしわをなくしてみる」とか。

何かたった一つを。小さなことでよいので、たった一つから。

2010年11月17日水曜日

旧ブログ記事:ことの顛末:奇病列伝その後。(2010年11月17日掲載)

もう1年半以上前の話です。
2008年3月末、口腔外科で「粘液のう胞」の除去手術をしました。

この時の顛末は、ここに ⇒ 「奇病のデパート
(今読んでも、大変だったなあー、あの日は、とシミジミしてしまう)

手術もおおごとだったし、予後も・・・。ちょうど新人研修にぶつかって、話すたびに涙がちょちょぎれる、という状態で。

しかし、その後も後遺症で小さく悩む羽目になりまして。

で、後遺症の対処のために先日(11月13日土曜日)にちょっとした処置をしてもらいました。

口の中(ほっぺたの裏というか歯茎の下というか)の術跡に新しくできてしまった筋をざくっと切ってしまう、というものです。。

電気メスで筋を切るだけ、とはいえ、麻酔し、長さ1センチ、奥行き2ミリ程度の切り傷。当然、縫わない。自然に再生するのを待つ。

今日は5日目。痛みと腫れはだいぶ引いてきました。話すのはできる。ご飯も食べられる。

回復してきて、口を少しずつ動かしていますが、2年ぶりにちゃんと口が動くようになってきました。

これまでも他人からは全然気づかれなかった程度の違和感ですが、私はもう1000日近く忘れることのない違和感でした。しゃべる、笑う、食べる・・度に口の中が引き攣れる。口腔内でぴーんと引っ張られる。

だが、しかし。どうやら、これでかなり改善された模様です。
(この、筋を切るのも今回が2回目。前回は浅く切ったので違和感が消えず)

痺れと麻痺はまだまだ継続中ですが、引きつれ感がないだけで、どれほど晴れやかな気持ちになるものか。QOL(Quality of Life)って、こういうことだよなあ、と実感しています。

それにしても、前にも書きましたが、「口内炎」を侮るなかれ。1ヶ月以上続いたら別の病気である可能性大。場合によっては、癌というケースも。

私の腫瘍も、念のため病理検査に出され、その結果、「粘液のう胞」(良性腫瘍)と診断が確定したのでした。

健康はありがたい。

2010年11月13日土曜日

旧ブログ記事:〆切りを守らない人は「ソロバンの上に正座」! (2010年11月13日掲載)

編集者や執筆者が集まった席で、私が「〆切りを破ったことは一度もない。全部、〆切り前に入稿している。前も前、3週間前だったりすることもある」と申しますと、編集者が一斉に「えーーーーーーっ。それは素晴らしすぎる」と絶賛してくださいました。

その時、〆切りには、2種類ある。「〆切り」と「本当の〆切り」。という話が出たのですが、これは何を意味しているかというと、「覚書やら口約束やらで交わした”毎月15日〆切りでお願いします”」といったものと、「この日も出なかったら原稿を落とす(掲載できない)」という本当のぎりぎりの〆切りがある、ということなのです。

まあ、どの仕事でも「〆切り」と「本当の〆切り」は確かにあるわけですが、それと、「本当の〆切りを守ればいい」という話でもないような。

「皆、〆切りは守ろうぜ!"ホントの〆切り"なんて言ってないでっ!」

・・・・なんてことをTwitterでつぶやいておりましたら、何人かの方が絡んで?きて下さって。

「〆切りを守らないことを当たり前みたいにして、だから、最後に謝辞で”〆切りを守らない僕を励ましてくださった編集者のAさん”なんてことを書いちゃうんじゃないか」ってなこととか(原文どおりではありません)、

「物を書く人間だって、物書き以前に社会人。挨拶だとか時間厳守とか当たり前の社会人の基礎体力が伴わなければダメ」

「ボクのプロジェクトだったらしばく!」

ってなコメントが届きました。

私が雑誌などに寄稿するようになったのは2002年でかれこれ9年間、メディアに文章を寄せているのですが、一度も「田中さん、そろそろ~」とか「まだですか?」などと言われることはなく、とにかく早め早めに出すことを心がけてきました。

体調不良に見舞われるかも知れないし、家族に何かあるかも知れない。自分が突然書けない!という症状に襲われるかも知れない。

第一、気が小さいので、早め早めに出して、楽になりたい、という気持ちもあります。でないと、ずーっと原稿のことが頭から離れないからです。

「編集者から催促のメールが来ているけど、読まなかったことにしよう」「親が倒れて・・と言ったら、”ウソはやめてください”って突っ込まれたことがあるわ」なんてことを武勇伝のように語るのは、ちとカッコ悪いかなあー。

で、Twitter上での結論は、「〆切りを守らない人は、算盤の上に正座!」でした。

痛いだろうなぁ・・・・。算盤の上に正座。

ある方が幼き頃、算盤塾でさせられたお仕置き?なんですって。コワっ!

2010年11月11日木曜日

旧ブログ記事:「なるほど」「だろ」そして「そうですねぇ」(2010年11月11日掲載)

同僚が、「オクサンの話は、”なるほど”で受けていれば、とりあえず家庭内は平和!」と断言していました。

「なるほど、・・・・なるほど・・・・」と言うと、オクサンは「受容、共感」してもらえた、と思うらしい。失敗はない、と。

また、「部下には、”だろ?”と反応すると、なんとなくサマになる」とも言ってました。

「●●課長!私、これをこうしたほうがいいと思っているんですが」
「だろ?」

といった使い方だそうです。

この会話で思い出したのは、自分の経験です。

20年くらい前の話。

姑さんから自宅にTELがあり、それがとてもとても長話だったので、だんだん面倒に(失礼!)になってきて、途中から、

「そうですねぇ」
「そうですねぇ」と空返事を始めました。

何度目かの「そうですねぇ」の後、電話の向こうで姑さんが固まった感じがしたのです。

あれ?と思い、耳に残った会話を巻き戻してみると、直前に姑さんがおっしゃったのは、

「ほらぁ、あたし、太っているんでしょう?」

だったのですよ。

それを「そうですねぇ」で受けてしまう嫁!

・・・・

この話は、朝イチに書こうと思っていたのですが、うまく使えなかったので、ココで紹介しました(笑。

・・・・・

「なるほど」
「だろ」
「そうですねぇ」

基本的には「受容」と「共感」につながる言葉なので、使う場面さえ間違えなければ、活用できるチャンスは多いと思います。

2010年11月10日水曜日

旧ブログ記事:ほんの小さなことから始めてみる(2010年11月10日掲載)

「リーダーシップ」とか「チームビルディング」と言うと、すごく大層なことをしなければ!と気負ってしまいがちです。

「強力なリーダーシップを発揮!」
とか
「リーダーシップでぐんぐん引っ張っていって!」
といった言葉があちこちで飛び交うものだから、とてつもないパワーを出さないと「リーダーシップ」なんて、「私には無理っ!」とか「まだボクには関係ないしっ!」などと腰が引けてしまうようにも思います。

しかし、「リーダーシップ」を定義するとすれば、「チームの目標を達成するために、誰かが別の誰かに与えるプラスの影響力」ということで、それって、別に「強力」じゃなくてもいいのですよね。

小さな影響力であっても、積み重なっていけば、大きな力になる。

たとえば、大きな石がどんと置いてあって、それを巨大な重機でどどーっと動かす、ってこともできれば、梃子の原理を使うなり、大勢で力を合わせて押して行って、ちっちゃく30センチずつくらい動かすこともできる。

「リーダーシップ」という時、巨大な重機でどどーっと、という方を想像するから、「私には無理」「オレ、まだ関係ないし」となるのかも知れません。

で、たとえば、こんな実践例を聞きました。

● メンバを集めて、仕事の全体像をちゃんと絵や図も組み合わせて説明したら、メンバが「指示待ち」から、自主的に考えて動いてくれるようになった。全体像を理解していると思っていたけれど、何度も説明したほうが良かったんだなあ。

●メールで仕事の指示や報告へのフィードバックを与える際に、いつもは「用件のみ」をすぱっと書いていたけれど、ほんの1-2行「ありがとうございます」とか「もう少しで完成だね」とか「いいものが出来そうですね」と添えるだけで、俄然、やる気が刺激されたようだし、人間関係もよくなったみたい。

●メンバの席が離れていたのを上司に掛け合い、できるだけ近くに座るよう席替えをした。そしたら、以前より、Face to Faceの会話が自然に行われるようになって、誰が何をしているかも理解できるようになった。だから、助け合うことや労うこともしやすくなった。

・・・

これらは、別に「大層なこと」をしているわけではないのですが、それでも、小さな影響力を及ぼし、チームを確実に目標達成に向けて動かすことに寄与しているはずです。

リーダーであろうと、リーダーでなかろうと、誰もができることを少しずつやってみることが、チームの成果を生み出す原動力になるのかなあ、と思うのです。

小さなことからこつこつと」と言うではありませんか。

2010年11月8日月曜日

旧ブログ記事:「挨拶はどこですればいいのでしょうか?」という疑問(2010年11月8日掲載)

先日、クライアント先で、OJT担当者向けのワークショップを担当しました。

冒頭で人事のご担当者がこんな話を。

「新入社員研修中に挨拶しなさいね、と意識づけをしました。配属前も”現場に行ったら、とにかく挨拶”と口をすっぱくして言いました」
「すると、新入社員から質問が出ました。”挨拶は、どこですればいいんですか”と」
「そういうことから分からない新入社員が配属になります。支援してあげてくださいね」

・・・・

なるほど。確かに、職場で「挨拶」する、ってどこに立ち、誰に、どんな風にすればよいのだろう、と悩む気持ちはわかります。

扉のところに立ち、大きな声で「おはようございますっ!」と言うべきなのか、
人の間を歩きながら、一人ずつに「おはようございます」「おはようございます」と声をかけつつ自席にたどりつくべきなのか。

はたまた。

自分の席までつつーっと進み、近隣の方にだけ「おはようございます」と言うべき、なのか。

私たちが何気なくやっている挨拶ひとつ、疑問の元になるのだなあ、と面白く聞いていました。

「慣れてくりゃわかるよ」と言うのは簡単ですが、「やってみりゃわかるよ」と言ってしまってもよいのですが、こういう新鮮な疑問って、どこか懐かしい。

はて、私は、どうやって挨拶しているだろう?と改めて考えてみたら、「第一同僚発見」の際にまず声をかけ、あとは、何となく歩きながら、「おはようございまーーーーーす」と間延びした挨拶をしながら、席についているようです。

新入社員の疑問から、わが身を振り返る、というちょっとオモシロい出来事でした。

2010年11月7日日曜日

旧ブログ記事:「ネガティブ」を避ける(2010年11月7日掲載)

水曜日に休み(祝日)があると、1週間が見事に2分割されて、いいですね。(そういう勤務体系でない方・・・スミマセン)

さて。

ここ数年思っていることを先日、Twitterでつぶやいたら、「そうだね」と賛同のコメントを頂戴したので、ここにも書いておこうかと。

●ネガティブな言葉や文章を耳にしたり、目にしたりしないよう、自分から距離を取るようにしている
という内容のつぶやきです。

たとえば、

「愚痴ばかり言う人とできるだけ一緒にいないようにする」
「他者の悪口や批判をする人と時間を共にしないようにする」
「不平不満だらけの文章を目にしないようにする」
「文句や批判の文章は読まずにスルーする」

といったことを意識的に実践しています。

・・・・

「これ、スゴイよ」と紹介されたブログに飛んでみたら、なんか心臓がぎゅっとつかまれるような悪口や批判の文字が連なっていると、自分に関係ない内容であってもとても辛い気持ちになってしまうのです。

あるいは、何かの呑み会に参加したら、「あれやこれや不平不満ばかりだった」といった場合、帰宅してから、「悪い言葉」が頭の中をわんわん鳴り響き、きっと自分の細胞にもよからぬ作用をもたらすに違いない、と思ってしまうこともあります。

陰で文句を言って解決することはなく、言いたいことがあれば、当事者に直接伝えればよいし、伝えられないなら、大人として自分なりの消化方法を採用すればよい。

・・・・

と、そんなことを最近、とみに思うようになりました。

もちろん、自戒を込めて。

2010年11月5日金曜日

旧ブログ:「突っ込み力」⇒模造紙にまとめると抽象的になってしまう(2010年11月5日掲載)

ワークショップをファシリテーションしていると実感することの一つに

模造紙にまとめた瞬間、言葉が全部抽象的になってしまう

という現象があります。

例を挙げます。

「よい交渉とはどんな交渉でしょうか?」という議論をしていただくと、成果物である模造紙に書かれているのは、

●事前準備がしてある
●相手と信頼関係がある

といった表現になります。

全然わかりませんよね?何を指しているのか。

実際にはグループ内でもっともっと具体的な話をしているんですよ、皆さん。

だけれども、模造紙に書いた瞬間に抽象的になってしまう。

ただ、一緒に話し合っていたグループのメンバはまだいいのです。会話に参加し、具体的な例も聞いていたから。

問題は、この模造紙を見ながら発表を聞いているクラス内の他の方たちです。

●事前準備がしてある
●信頼関係がある

これを見て、何も具体的なことはわからないはずなのに、「何か質問は?」と問い掛けても「いや、わかるので、大丈夫」とおっしゃって、質問しない方が大半です。

ホントは、「事前準備とは、たとえば何をどうやっておくのですか?」などと突っ込むべきところなはずなのに。

「わかった気になる」というのは、ワークショップで危険なことだと思っています。

ワークショップだけではありません。日常の実務においても、「わかった気になっている」ことは案外多いように思います。確認しなければならないのに、「わかったからいいや」と思い込む。「たぶん、こういうことだろう」と自分が持つ予備知識と結びつけての勝手な解釈など。

わからなければ、不確かならば、どんどん質問すればいいし、すべきなのに。質問してより深く理解したほうが自分にも相手にもよいことなのに。

よく「部下には”具体的に考えてほしい””問題意識を持ってほしい”」という声を聞きますが、こういうワークを見ていると、”具体的に考える””問題意識を持つ”というのは、若手だけでなく、中堅・ベテランでもとても難しいように思います。

「それはどういうこと?」
「たとえば?」

といった「突っ込み力」はとてもとても大事なのです。

2010年11月3日水曜日

旧ブログ記事:「やってみる、続けてみる、それから考える」(2010年11月3日掲載)

昨日、Twitterで「仕事を続ける」ことについてつぶやいたら、色んな方から反応がありました。

その中で、ある男性から、こんな言葉が届き、はっとしました。

「やってみる、続けてみる、それから考える。そうこうしている内に10年以上」

これ、とても共感しました。


頭であれこれ考える前に、まずは、「目の前の仕事をやってみる。取り組んでみる」

うまく行こうが行くまいが、とにかく「続ける」。ひたすら「続ける」。

その内「これは好き」「これは苦手」「でも克服したい」「克服してまでやりたいことでもない」など少しずつ自分の中で「何か」が見えてくることがあるんじゃないか。

そしたら「考える」。

考えて、また先に進む。

クランボルツ氏のおっしゃる「計画された偶発性」も、「やってみる、続けてみる、それから考えてみる」。そして、「なんらかのアクションを起こす」ということを指していると思うのです。

・・・・・

大卒の新卒者3年離職が30%をとっくに超えているといったデータがありますが、この中には、もしかすると、

「考える、考える、考える」ばかりが先行して、「やってみる」とか「続けてみる」があまりできていないケースもあるのではないかと思ったり。

下手な考え休むに似たり、という言葉もあります。

体を動かさずに考えたことって、ロクなことじゃない場合もあると思うけれど、体を動かして、頭だけではなく、体が感じたこと、心が感じたことには意味があるような。

入社して早くも半年以上経過した新入社員には、「やってみる」「続けてみる」にまずは挑戦してご覧、と伝えたい。

「考える」のは後からでもできるよ、と。

たとえば、「達成感」だの「充実感」だのって、「何もしないで得られるもの」じゃなくて、からだ動かして挑戦したからこそ、そして、それを続けたからこそ味わえるもの、だから。「どうしたら達成感を味わえるか」なんて頭で考えないで、目の前の仕事をまずは精一杯やってごらん、と。