2009年8月11日火曜日

旧ブログ記事:研修は神聖なものか?(2009年8月11日掲載)

10年ちょっと前に(今は在席していない)上司(50代)から、「研修というのは、神聖なもの。教室で水を飲むなんて、我慢すればいい。だって、1時間に1回は休憩も取るんでしょ。」と言われたことがある。

その時は私もまだ30代前半の若造(私が、です)だったので、「そういうもんかな。20歳以上年上の人が言うのだから、そういうもんかな。」と、簡単に納得してしまったのだが、よく考えたら、この話、今は違和感がある。

なんだか「思い込んだら試練の道をぉ♪」の世界を彷彿とさせる。

「教室を神聖視する」あるいは、「研修を神聖なものと扱う」もしかすると、「講師を偉い人と考える」などということ、全てが、「自由な学習」「自律した学習」を阻害している気がする。

私はこれまでに3回渡米し、合計5クラス(14日間)を受講したことがある。いずれも主に米国人と一緒の受講である。

これらに参加して感じたことは、いくつかある。

第一に
★ アメリカの研修は、”自由”だ!  
受講者の服装が自由である。講師もなんだか自由である。受講者は、ラウンジにあるコーヒーやドーナツなどを手に手に入ってきて、それを机に直接(アメリカ人なので)置いたりして、かじりながら参加している。

休憩時間でなくても、講義中でも、コーヒーを取りに一旦外に出たり、ととにもかくにも、とても自由なのだ。

発言も自由である。「質問は?」と促さなくても気になったことはどんどん質問する。 質問だけではなく、他の参加者の発言に、「私はこう思う」とすかさず意見を述べる。

第二に
★受講者が自己管理をきちんとしている(自己管理できる環境にしてある)
あるいは、講義中眠くなったのか、突然立ち上がり、視界の邪魔にならないよう、端の席の机に寄りかかって聴いたりしている。動き回っている人もいる。 講師は全く気にしていない。他の受講者も。全てのクラスで「居眠りしていた」受講者はゼロである。「眠くならないわけ」はないのだが、「立ち上がる」「歩き回る」と自己管理をしているのだ。

さて、冒頭の話。

「研修は神聖なものである」という定義から生まれるものは何か。

歩き回るのはNG。おとなしく座っていないのはNG。自由な発言もNG。ということにはならないだろうか。

「研修は、学びの場である」「学びの場は、自由にのびのびと自律的に活用していただけるのが最も望ましい」と私は思っている。

アメリカをまねて、
●音楽を流してみている
●キャンディーを用意している
「形」からだけれど、「神聖」なものじゃない、「神聖」な場所じゃない、 を伝えたい。

その代わり、参加者にも「遠慮せず発言する」「気後れせず挑戦する」など、「自分の成長のために」
場と時間と講師を活用していただきたい、と思う。