2010年5月15日土曜日

旧ブログ記事:「理由」(2010年5月15日掲載)

Twitterでつぶやいておいたのだけれど、昨日、帰りの地下鉄で、隣に座った女性が文庫本を熟読していて、覗き込んだら、宮部みゆきさんの『理由』だった。2004年だかに出た作品。

驚いたのなんの。私もそれを読んでいたから。私の場合は、GWに帰省していて、持参した本が全部終わり、うろうろ実家内を探索していたら、「処分しようとしている本」の中に発見、母にもらったものだった。

隣の人と、「今、現時点での旬なベストセラー」を読んでいるってのなら別になんとも思わないが、そうじゃなかったグーゼンに驚く。話しかけたくなったけれど、「変な人」と思われるだろうからぐっとこらえた。

そんなわけで「理由」。

「自分がすべきことが終わったら、自分のために残りの勤務時間をどう使おうと自由だ。たとえば、1日分のミッションが終わり、時間が空いたから、資格試験の勉強をするとかさ」
「仕事さえちゃんとしていれば、服装や髪型、アクセサリーも含めた付属品、どんなんだって、別に構わないじゃん」

という、主張があるとする。

「いやあ、それは、ちょっと。組織に所属しているのだから、自分の仕事が終わったら、誰かの手伝いをするとか、せめて、『手伝うことはありますか?』と声をかけるくらいの配慮は欲しいよね。個人事業じゃないんだから」
「服装だって、TPOってのがあって、仕事ができりゃ、何でもいいってこともないでしょ」

という反論をするとする。

すると、

「どうしてダメなんですか?」
「具体的に誰に迷惑がかかっているんですか?」
「誰かを傷つけたり、怒らせたり、損害を与えたりしていますか?」

と、「ダメ」のその「理由」を問われる。

反論された先輩は、

「うぐっ」

とうなって考え込む。

傷つけてはいないか、
怒らせてはいないか、
損害は与えてないか・・・。

ん?

「それじゃあ、なんで、自分のタスクを終えたら、”手伝うことありますか?”って声をかけるほうが、よし、とされるんだろう?」
「どうして、茶髪はいけないんだろう?自由な服装はダメなんだろう?」

と考え始める。

明確な「理由」を述べたつもりでも、「それって、感覚論ですよね」「主観的な話ですよね」などとさらに反論されると、さらに、

「うぐぐっ」

となる。

・・・・・

「ダメなものは、ダメ」と言い切ってしまえる時代もあったかも知れないが、多様性も認めようという現代。

何かを指導するためには、「理由」が必要なのだけれど、どんな背景を持った人にもグーの音も出ないほどの「理由」を見つけるのは、案外難しい。

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