2010年5月31日月曜日

旧ブログ記事:内田樹さん『先生はえらい』から「学びの主体性」を考える(2010年5月31日掲載)

岡田斗司夫さんがTwitter上でなさっている「公開読書」で扱われた、内田樹さん著『先生はえらい』を読了しました。→ 岡田斗司夫さん、ありがとうございました!

若者(中高生?)をターゲットにした筑摩書房の新書シリーズで、難しい漢字には振り仮名が振られ、行間も大きく取ってある、読みやすい本です。

この中で、一番心に残ったのは、この一文。(P.37より引用)

「人間は自分が学ぶことのできることしか学ぶことができない。学ぶことを欲望するものしか学ぶことができない」

という「学びの主体性」について言及している部分。

「人間は、自ら学ぶことしか学べない」
「学ぼうと思うことしか学ぶことができない」

とは、とてもとても深遠な、そして大切な言葉であるように思います。

よく、

●「魚を与える」のではなく、「魚の釣り方を教えるべし」

という言葉を聴きますが、この「学びの主体性」という観点から考えると、

●「魚の釣り方」以前に、「魚を釣りたい」と思っていなければ意味がない!

ということになります。

ああ、当たり前だけれども。

「私は、魚釣りをしたいわけでも、魚を食べたいわけでもない」と言う人に「魚の釣り方」を教えるのは意味がない。

いや、実際、ぜんぜん興味なくても、無理やり「魚の釣り方」を教わって、「おお、魚釣りって面白いなあ」とか「自分で釣った魚を食べるとおいしいものだ」と開眼する人はいるかも知れない。でも、「無理やり魚釣りに連れて行く」時点で計画が頓挫することもあるでしょう。

一方で、「魚を釣りたい」「自分で釣った魚を食べてみたい」と思う人は、進んで釣りの師匠を見つけるなり、釣りの本を買って読むなりするはず。

内発的に動機づけられていることが「学び」を支えるのですよね。

それから、この「主体性」については、こういう視点でも捉えられます。

「魚の釣り方を学ぶ」場面で、

●ある人は「魚の種類」を学ぶかも知れない
●別の人は「魚釣りの道具の美しさ」に目覚めるかも知れない
●別の人は「船酔いしない方法」を編み出すかも知れない
●ある人は「休日に海に行くことの癒し効果」に気づくかも知れない

・・これが、「人は自分が学ぶことしか学べない」ってことでもあると思います。

私が時々頼まれ講演をする際に、先方が用意したアンケートを後日見せていただくことがあります。

「私が最後にちらっと話したたった一言などが心に残ったのか!」と思うような感想もちらほら。
人は「同じ話」を聞いても、全く異なる部分で刺激を受け、内省を深めているのですね。

「学びの主体性」という観点からすれば、講演でも研修でも本を読むにしても、「私は何を欲しているのか」を明確に意識しておくことが大切だと思います。

よしんば、事前にそういう意識は持てず、「上司に言われたから仕方なく参加した」という状態だとしても(たまにいらっしゃいます)、話を聴きながら、本を読みながら、「私が欲しているものは何か」を考えていくことがその時間その場を自分の糧にするコツなのかも知れません。

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