2009年12月4日金曜日

旧ブログ記事:『リフレクティブ・マネージャー』を読んだ(2/3)(2009年12月4日掲載)

というわけで、3章から続けます。

3章:働く大人の学び -導管から対話へ
中原さんの前著『ダイアローグ 対話する組織』の中でも触れられている「導管メタファ」について改めて述べています。

学習は、有識者も知識や知恵を、講義などで注入すれば成り立つ的なとらわれ方が長くなされてきたけれど、今は、「学習者が互いに影響しあって学習を促進する”協調学習”」という考えが注目されている。

「導管メタファ」による学習形態といえば、「講義中心の一斉教授方式」がまさにこれに当たりますが、やはり、講師が「伝えたつもりのこと」≠学習者が「理解し、できるようになったこと」になるので、限界があります。これは、技術研修でも同じです。

中原さんも金井さんも共通して述べているのは、以下のようなことです。

マネージャーが部下の育成をすべて担わなければならないのか?たしかにマネージャには部下の育成の責任はある。しかし、それは、一身に背負って教え、育てるということではないはずだ。部下が育つような環境を作っていくことこそがマネージャの役割なんじゃないか、と。

では、職場を学びの場にするにはどうすればよいか?

そこで登場するのが、「正統的周辺参加」です。

以下、また引用。(P.183)
「新人(学習者)にとっての学習は、しごとの中の日常的行為に埋め込まれたものであり、「学習-仕事」という対立概念<田中注:「学習するのか」「お仕事するのか」を異なるものとして扱うこと>は存在しない。 (略) 学習者が意識しているのは、知識やスキルの習得などシステマティックに細分化された目的ではなく、トータルな意味での実践活動における行為の熟練だ。」

P.184
「新人は、ある組織の中で、組織にとって価値があるとされる事柄を周辺的に担いながら、ときに試行錯誤を繰り返し、さまざまな人々の助けを借りつつ、一人前になっていく。」

これで思い出したとあるベンチャー企業の社長の一言。

「田中さん、人はさあ、”アイツは俺が育てた”という記憶は持っていて、それを偉そうに言うことがあるけど、 ”俺はあの人に育てられた”という記憶、というより、自覚自体をさほど持っていないもんなんだよね」

ダイアローグしかり、正統的周辺参加しかり、人は、「1人で勝手に成長するわけ」ではないのですね。

4章:企業は「学び」をどう支えるのか

この章は、主に、企業における人材育成について語られていて、私のように人材育成を生業にしている人間には耳の痛い話がてんこ盛りです。

たとえば、
●人事部は「教育ベンダー」に丸投げ研修をしていませんか?
などと言う、企画段階の課題から、

●きれいに終わる研修がよいのか?
というデリバリ段階での問題まで。

特に、「きれいに終わる研修」の是非について、中原さんは、「世の中、正解なんてないのだ。研修を受けたらかえってもやもやする。だからそれにより内省が始めればよいのだ。」みたいなことをおっしゃってますが、これ、現場の講師としては、悩むところです。(理屈としては100%うなずくのですが)

「講師ははっきりとヒントを与えてくれなかった」 「研修に出ても私の問題は解決しなかった」 と怒ってお帰りになったりすると、本当に苦しい。(文字通り、心臓がバクバクします。)

「唯一無二の正解」など存在しないと言っても、ある程度の指針を示すなり、何か「すっきり感」を与えるなりしないと、 ”顧客満足度”という観点では、否と見なされることもあります。

だとすれば・・・・。

もともとの設計段階で「もやもや」するのがこの研修の意図です。 といった話し合いがきちんとされていることが重要なのかな、と改めて思いました。


※ ああ、まだ終わらない。後編に続く

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